歌姫を拾った。町の広場で一目見た時から感じるものはあったが、攫ったんじゃない。拾ったんだ。
そう言えばクルーたちは不思議そうな顔をしてなまえをまじまじと見た。おれが言うのも何だが、これは常識的に失礼な行為に値するはずだ。だが、そんなクルーたちになまえはただ優しく微笑むだけだった。
「本当に拾ったんスね〜」
「ええ、拾われました」
清楚、可憐、高潔。いつもとは違うタイプの女であるなまえに、クルーたちはすっかりデレデレしている。情けない限りだ。
俺はなまえの細い手首を掴んで甲板に連れて行った。普段着ではなくドレスを着ていたなまえに夜風は少し肌寒いと思ったので、自分の持っていた上着を羽織わせる。なまえはクスクスと笑った。
「お優しいのですね」
「はじめて言われた」
「そうですか」
なまえはおれの少し前を歩く。その行動に少し違和感を抱いた。男女2人で歩いている時、男に寄り添って歩くのが女の性だと思っていたからだろうか。やはりコイツは何か違うと思った。
「なぜ船に乗った?」
「あら、わたしを拾って下さったのは貴方なのに。可笑しな質問」
「理由もなく乗ったのか?」
「理由……」
そう言えばなまえは歩みを止めてくるりと回ってみせた。そのドレスにはバラの生花が使われていて、なまえが回ることで花びらがひらひらと宙を舞う。なんとも綺麗だった。
「もったいないな」
「良いのです、これは今宵限りのドレスでしたので」
そう言ってなまえはすうっと空気を吸った。一瞬だが、全てのものが完全に静寂に包まれた気がした。空気、風の音、潮の音……そう全て。
そんな世界から織りなされたのは静かな歌声。まるで初めから流れていたかのような、そんな具合にさり気なく聞こえて始めてきた。
「この声に惹かれのですか?」
「……ああ」
今まで聞いた中で最も短い歌だった。だが不思議と違和感はなかった。なまえは月を見上げる。おれはなまえを見ていた。
「この声、わたしはまだまだ生まれ変われると思うのです」
「ほう?」
「その為には経験が必要です」
なまえは月に背を向けて、おれを正面から見据えてきた。その立ち姿はなんとも立派なもので、おれはその女を見て密かに息を呑んだ。
「わたしはこれから世界を知ります。それは決して綺麗なものだけではないでしょう」
戦いもあれば、死もある。己の欲望に塗れた者たちがゴマンといるこの海だからこそ、豊富な人生経験が得られるはずなのです。今まで平和の中にいたわたしが知るはずもなかった、新しい世界観が。
「命知らずな女だな」
「全てはわたしの歌のためです」
「そして肝も座ってる」
おれはなまえへと歩みを進める。コツコツという靴音がやけに大きく感じられた。こんなに静かな夜は久しぶりだ。
なまえの目の前にたって、艶やかな光沢を帯びた髪を一束掬い上げる。それは夜風にサラサラと浚われて、おれの指から逃げていった。
「そういう女は嫌いじゃない」
「ふふ、そうですか」
「せいぜい死ぬなよ」
おれは額にキスを落とした。
ソプラノリリコ
この醜い世界を知っても、君の歌声が喪われないことを願う