やがて男の姿が見えなくなると、どこからともなく拍手が沸き起こり、そこは人々の大きな歓声に包まれた。


「いいぞ姉ちゃん! よく頑張った!」
「早く冷やしたほうがいいわよ!」
「兄ちゃんも格好良かったぞー!」


 拍手に紛れて飛ぶ声に女はハッと顔を上げた。あの人影が止めてくれなければ自分はおろか店までもが、今頃最悪な事態になっていたかもしれないのだ。いまだに盛り上がる人の中、懸命に大きな人影を探す。と、人なつこそうな老人に肩を叩かれて照れくさそうに頭を掻くひときわ大きな男が視界に入ってきて、女は慌てて男へと駆け寄る。


「あ、あの!」
「ん? ああ、さっきの嬢ちゃんか」
「あの、その、あ……ありがとうございました! なんてお礼を言ったらいいか、」
「気にするな。それより血が出てるぞ」


 言葉が降ってくると同時に、女の口端は柔らかい感触に包まれた。次いでぴりりとした痛みが走り、女は思わず眉をしかめる。


「悪い、痛かったか?」
「いえ、だいじょ……」


 男の声に誘われるように顔を上げた女は傷の痛みを一瞬忘れた。慈しむような優しい瞳に心配の色を浮かべながら、自分の顔を覗き込む男に目を奪われたからだ。今まで生きてきた人生の中で、こんな近距離で異性の顔を見たのも初めてな女は、自分の顔が途端に熱くなるのを感じた。


「だ、だだだ大丈夫です! っ、あいたっ!」
「無理するな。腫れてるぞ」
「す、す、すすすみません!」


 堪えきれずに女は思わず目を固く瞑った。人と会話するのは元々得意ではないが、今の自分はそれにさらに輪をかけて酷い自覚がある。そんな自分が恥ずかしくて心中唸っていると、ふ、と目の前の空気が揺れたような気がした。


「……?」


 不思議に思い、おそるおそる瞼を持ち上げた女は呆気にとられた。そこには自分の口元を手で押さえ懸命に笑いを堪える男の姿があったからだ。どうやら先ほど感じた空気の揺れは男の漏れた笑いだったようだ。


「あ、の……」
「か、噛みすぎ、だろ……! ク、ククッ、」
「……!」


 今度こそ女の顔は林檎のように真っ赤になった。それは羞恥からくるものではなく、単純に男の少年のような笑顔が女の心臓を打ち抜いたからだった。


「悪いな笑ったりして。ちゃんと冷やしておけよ」
「は、はい! あ、あの……お名前を伺っても?」
「アスマだ。猿飛アスマ。じゃあな」


 ぽんぽんと女の頭を撫でて立ち上がった男はそのまま踵を返して歩き出す。その後ろ姿を追う女の視線は、まるで熱に浮かされたように熱いものだった。


「猿飛……アスマさん」


 その時の女は気付かなかった。去っていく男の纏う深緑が先日失礼なことを自分に言い放った男と同じものだということを。そしてこれから先、あれほど関わりたくないと思った男と不本意ながらも関わっていくことになることを。
 アスマの姿が見えなくなってからも、女の視線はいつまでもアスマの歩いていった道から外れない。それは、女が生まれて初めて自覚した淡い恋心だった。


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