「──解ったか?」

「……はい、なんとか」



 油女くんの個人授業がひと段落した途端、なだれ込むように机に突っ伏した。お、終わった……。やっぱりというかなんというか油女くんは厳しかった。基礎の基礎から始まり応用に辿りつくまで約二時間。その間に解いた問題は百をゆうに超えている。まさしくサディスト星の王子らしい指導っぷりだった。
 お茶でも持ってくる。そう言い残して階段を降りていく油女くんの足音が遠ざかり、ようやく本当に安堵の息を吐いた。本音を言えばすぐさま油女家を後にしたい。あの油女くんを育てた家だと思うと怖くて落ち着かない。でも黙って帰るなんて恐ろしいこと、出来るものなら最初からここにいないんだよね。
 小さく溜め息を吐き仕方なく顔を上げて部屋を見渡す。整然と片付けられたそこはいかにも油女くんらしく無駄な物なんてなんにもなさそうだ。けれどそんな部屋にひとつだけ、似つかわしくないものが視界に入った瞬間、私の目は釘付けになった。



「……ん?」



 思わずそれを手にとって凝視する。それはなんてことない一枚の写真。だけどそこに写っていたのは──



「わた、し……?」



 幼稚園の卒園式だろうか、ずいぶんと幼い自分が笑うその写真。右隣に並んでいるのはシカマルだ。目つきの悪さとトレードマークのちょんまげは今とまったく変わらない。そして左隣は……黒い短髪に眼鏡、鼻から下が大きな襟で隠れた男の子。仲が良かったのかシカマルとその男の子の間に挟まれた私の手は、しっかりとふたりの手を握っていた。なんで油女くんがこんな写真持ってるんだ? そしてこの男の子は誰だ?



「……名字」

「っ、ひゃああっ!」



 がちゃん。驚いた拍子に手放した写真が重力に逆らうことなく床に落ちていく。派手な音を立てたフォトフレームは落とした衝撃で見るも無残な姿になってしまった。なんで音もなく人の背後に立っているんだ油女くん!



「ご、ごめんなさい」

「いや、いい」



 そういったきり、無言で片付け始めた油女くんを私はただ黙って見ているしかなかった。なんで幼稚園の頃の写真なんて飾ってるのか、なんでそこに私が写ってるのか、そしてもうひとりの男の子は誰なのか。聞きたいことはたくさんあるのに混乱した私の脳内はそれらを油女くんへと確認する言葉すら浮かばない。
 やがてかけらをすべて拾い終えた油女くんはその写真だけを机に残して出て行った。ちらり、とっさに盗み見た油女くんの横顔からはなんの感情も読み取ることができない。ひとり部屋に残された私はもうどうしたらいいのかすら解らず、ただ茫然と突っ立っていることしかできなかった。



「名字」

「……」

「……名字?」

「あ……ああ、油女くん」



 いつのまにか戻ってきていた油女くんの怪訝な声ではっと我に返った。どれだけそうしていたのだろう、ずいぶん長く感じられたけど実はそんなに経っていないような気もした。ただ油女くんの顔を見た瞬間、どうしようもない罪悪感が胸に広がってまともに油女くんの瞳を直視できなかった。



「送っていく」

「……」

「名字?」

「……ごめ、なさ……」



 何に対しての謝罪なのか私自身解らないまま、それでも何故かどうしても油女くんに謝らなきゃいけない気がした。この際油女くんの私に対する行動のことは横に置いといて、だ。なのに油女くんは一度私の頭を軽く撫でただけで後は何も言わなかった──










「……で? なんでそれをオレに言うんだよ」

「……だって、シカマルなら知ってるかと思って、」

「シノに聞きゃいいだろうが」

「……聞けなかったんだもん」

「……」



 帰ってからも写真のことが頭から離れなくて、気付いたらシカマルの部屋に押しかけていた。同じ写真に写ってた、しかも記憶力抜群のシカマルなら何か覚えてるかもしれない。油女くんの部屋にあった写真、そこに写った私とシカマル、それから謎の男の子。どれかひとつでも覚えていてくれたなら、この罪悪感の正体の手がかりが掴めるかもしれないんだ。頼むから覚えていてくれ。



「……お前ホントに覚えてねえワケ?」

「え、うん」

「即答かよ」

「じゃあシカマルは覚えてんの?」

「……まあな」



 気まずそうに視線を逸らすシカマルはどうやら本当に覚えてるらしい。さすがだよシカマル!
 ようやく掴めそうな手がかりに期待を込めた目でシカマルを仰ぎ見た。だけどシカマルは深い溜め息をひとつ吐いて呆れた目でこっちを見ると、更にまたひとつ深い溜め息を吐いて立ち上がった。な、なんだ、よ……。



「答え、教えてやってもいいんだけどよ……こういうのは自分でやらなきゃ意味ねえからな」

「え?」

「ほら、これ持って帰れ」



 そういって手渡されたのはえらく年季の入ったアルバムで、ちょっとだけページを捲れば小さなシカマルの姿がそこかしこにあった。うわ、シカマルってばどの写真もおんなじ仏頂面だ。うん、ある意味凄いよね。



「……私、シカマルの写真見て喜ぶ趣味ないんだけど、」

「アホか、いいから後は自分ちで見やがれ」

「えー……シカマルのけち」

「返せ」

「スミマセンデシタ」



 これ以上ヒントを与える気はないらしいシカマルは、私に数冊のアルバムを押し付けてさっさと帰れと追い出した。ちょっと冷たいんじゃないのシカマルくん。幼なじみなんだからもうちょっと親身になってくれても良さそうなもんじゃないか。そういえばこないだも油女くん寄りな発言してたし、こういう時はやっぱり男同士の友情のほうが大事なんだよね。
 溜め息を吐いてとぼとぼと自宅への道を歩く自分が、なんだか寂しいヤツに思えてきたぞチクショウ。こうなったら私にだって意地がある。絶対ぜったい、今後一切、シカマルの好きなあの子に対して協力なんかしてあげないんだからね!





 ──なんて、シカマルへの悪態を吐いて帰って十分。シカマルのお母さんが几帳面に一枚いちまいの写真に添えていた解説にありえない名前を見つけた瞬間、ご近所中には私の驚愕の悲鳴が響き渡っていた──



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