それからどれだけ日数が経ったのか正確には把握していない。けれど、胸にいまだに残る小さな痛みに私は自分がまだ吹っ切れていないことを理解していた。なのに、なぜ──


「話、あんだ……」
「……」


 真剣な表情を浮かべた彼に私は返す言葉を必死に探していた。もう、嫌だ。聞きたくない。私じゃない誰かの話なんて、平気な顔して聞けるはずがない。別の誰かを想っているその顔も、胸の痛みを増幅させるだけだと解っているから見られるはずもない。


「名字?」
「……私、もう人の話聞くの、止めたの。だから、」
「なんで?」


 間髪入れずに返ってきた彼の言葉に何も言えずに俯く。限界だから、なんて言えるはずのない言葉を喉の奥に無理やり押し込んで唇を噛んだ。


「オレのせい、か……?」
「!」


 その言葉に驚いて反射的に顔を上げると真剣な眼差しを向ける彼と目が合った。違う、ただ私が間違えたのだ。彼の想いに勝手に自分の想いを重ねて、独りよがりな感傷に浸ってしまった。彼は純粋に被害者だ、そう思った私は首を横に振る。私は上手く、笑えているだろうか。


「私もね……好きな人、いるんだ」
「!」
「今まで誰にも話さなかったし、恋愛に興味ないって思われてるのも知ってたから、余計に話せなくて」
「……」
「でもあの時は……本当に解ると思ったんだ。……ごめんね、嫌な気分にさせちゃったね」
「……」
「だから、もう止めたの。また、嫌な思いさせちゃったら……悪いし」
「……」
「……奈良くん?」


 眉根を寄せた彼の顔に胸が締めつけられる。そんな顔、しないで欲しい。いつものようにめんどくさそうで、だるそうで、それでいて優しい眼差しを宿した、私のいちばん好きな表情を見せて欲しかった。


「──誰だよ」
「え……?」
「お前の好きなヤツ」
「っ、なに、を」
「言えよ」
「……っ、」


 彼の口から突然放たれた言葉と鋭い眼差しに目を見開く。どうしてそんなことを聞いてくるのだろう。少なくとも私は誰の話を聞いても相手のことを詮索したりはしてこなかった。もちろん彼の相手の名前だって、気になって仕方なかったけれどずっとずっと抑えてきたのに。


「なあ、誰だよ」
「……っ、言いたく、ない。それに、なんで、奈良くん、が、」


 彼はこんなに食い下がる人だっただろうか。混乱する頭で、本能のまま逃げるように一歩下がる。もうこのまま逃げ出したい。これ以上近付かれたら、隠しきれないかもしれない。けれどそう思ったのも束の間、彼は先ほどまでの表情を訳が解らないと言いたげなものへと一変させた。


「は? 好きな女のこと、知りたいのは当たり前だろ」
「……」
「で、誰だよ?」
「……」
「名字?」
「や、だなあ奈良くん。冗談は止めてよ……全然面白くないよ」
「は? なんでこの状況で冗談なんか言うんだよ」
「だっ、て」


 思考が追いつかない。それほどまでに彼の発言は衝撃的だった。だって、それならどうして彼はわざわざ私に話を聞いてもらいに来ていたのか。どうしてあんなにも鋭い眼差しで私の言葉を否定したのか。そんな疑問が顔に出ていたのか、照れたように頬を掻いた彼は曖昧な笑みを浮かべて口を開いた。


「あー……オレなりのアプローチ、ってヤツ?」
「はい……?」
「それとなく、お前のことだって解るように話してたつもりだったんだけど、お前解ってねえみたいだったし」
「!」


 今、彼はなんて言ったのだろうか。理解しようとすればするほど、恥ずかしいことを言われた事実に顔が熱くなっていく。嫉妬まじりに聞いていたいつかの彼の話。もし彼の言うことが本当なら私は私自身に嫉妬していたことになるのだ。


「さすがに遠まわしだとは自分でも思ったけどよ、」
「待っ、て、もう、いい」
「……そう、だよな。悪い……」
「ちが、違う、の」
「は……?」


 言葉にしなければ伝わらない──いつかの彼女の言葉が脳裏を掠めて、緊張でカラカラに渇いた喉を思わず鳴らした。彼の想いを知ったうえでようやく言葉にする覚悟を決める私はやっぱりただの臆病者だろう。けれど──


「奈良くん、あのね──」


 まずは伝えることから始めよう。たとえ遠回りでも、私を好きだと言ってくれた彼のために。緊張で握りしめていた掌からそっと力を抜いたなら、私はようやく奈良くんへと下手くそな笑顔を向けたのだった。


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