小学校三、四年の頃だったろうか。まだ男女の隔たりなど、微塵も感じていなかった無邪気な年頃。男だの女だのそんなこと全く関係なく、ただ面白おかしく過ごしていた毎日。なのに、いつからだろう。気付いたら異性として意識し始めて、途方もなく高いたかい壁がいつのまにか私たちの前にそびえ立っていたんだ── 「なまえ、たまには一緒に帰らない?」 「……彼氏は?」 「一緒だけど?」 きらきら光る綺麗な髪がさらりと揺れて、友達が教室の入口を指した。立っていたのは隣のクラスの犬塚くん。最近付き合い始めたというふたりは、まだそんなに日も経っていないのに既に校内一のバカップルとして名を馳せていた。 「……ふたりで帰んなよ」 「やだ、気なんて遣わなくていいのに」 「遣っとらんわ」 これがあの頃の無邪気な私なら喜んでついていってたんだろうな。だけどね、私だってもう高二なんだよ。空気くらい読めるんだよ。犬塚くんの周りにメッチャ邪魔ってオーラが漂ってるのに気付かないほど鈍感じゃないんだよ。これでのこのこ着いてったら私本当に女失格じゃないか。 ふう。大げさな溜め息をひとつ吐いて、私も邪魔だと言わんばかりに掌を振ってやった。 「ほら、いいから帰りなよ。犬塚くんに私が刺される」 「やだーなまえってば」 なにがおかしいのか、けらけらと笑う友達を横目におそるおそる犬塚くんを盗み見た。ヤバい。マジで切れちゃう五秒前だ。血管ブチ切れそうなほど浮き上がってるよ!マジで私刺されるからー! 「なまえ、帰んぞ」 冷や汗ダラダラでそれこそいつ犬塚くんが飛びかかってこないとも限らない緊迫した状態の中、不意に背中にかかった声。慌てて振り向くと、いつのまにかいつものちょんまげにやる気のない顔をした幼なじみがだるそうに立っていた。 「あれー……? なまえってば彼氏いないとか言って、実は奈良くんと……」 「っ……! 帰るね、バイバイ」 友達のありえない言葉を完璧スルーして足早に教室を出た。シカマルの低い声がなにか言ってたような気がしたけど、それでも足は止まらなかった。違う。止めたくなかった。唇をぎゅっと噛みしめたまま、何故だか解らない焦燥感に追い立てられるように、ただひたすらに足を動かしていた。 「懐かしいなあ……」 一本の大きな木を見上げて思わず呟いた。あの頃と何も変わらない光景は昔の記憶をいとも簡単に思い出させてくれる。それは懐かしい情景。今は別の高校に通う幼なじみたちと私とシカマルが秘密基地と称して遊んだ楽しかった頃の記憶。そういえばタイムカプセルもどきを埋めたのもここだっけ。死ぬほどお菓子が食べたいとか色気も何もないことを書いた気がする。あれはまだ埋まっているのだろうか。私があの頃と変わらない純粋な子供だったなら、きっと今頃シカマルを巻き込んで掘り返していたんだろうけど、あいにくもう子供じゃない私には純粋さなんて欠片も残ってない。でも。 「掘って、みようかな……」 ぺたり。木の根元に座り込んで、指先で土を掻いてみる。長い年月を経た土は堅くてかろうじて表面に指の線が残るだけだった。それはまるであの高い壁のように、どう足掻いても崩すことのできないもののように思えた。 がり。がり。それでも何を意地になっているのか私の手は止まらなかった。鞄も放り投げ、近くにあった石で一心不乱に土を掻く。何故だか解らないけど、言いようのない寂しさが胸につかえて汗とは違う雫が目から流れていた。 「うっ……く、うえっ……」 違う。壁を作ったのは私。シカマルのこと意識して、顔すら満足に見れなくて、でも私を見て欲しくて──欲張りな自分が嫌で、だから純粋に笑い合えてたあの頃に戻りたいんだ。好きなものは好きと素直に言えた子供の頃に戻りたかったんだ。 「う、えっ……ふ、うっ……」 「……泣きながら何やってんだよ」 さっき確かに振り切ったはずの低い声が背後から響いた。ああ、そういえば声だってもうあの頃とは全然違う。なのにどうして、こんなに懐かしくて、こんなにドキドキするんだろう。 「昔さ……タイムカプセル、埋めたじゃない?」 「……ああ」 「なんかさ、掘り出したらあの頃に戻れそうな気がして」 「……戻りたいのか?」 「楽しかった、から」 「なまえ」 泣き顔を見られたくなくて、視線を今掘っていた土へと向けて指先を動かし続ける私の耳に、真剣味を帯びたシカマルの声が響いた。一瞬にして跳ね上がった鼓動を悟られたくなくて、もう顔を上げることも出来なかった。土を掻く指は、止まらない。 「オレは、あの頃には戻りたくねえ」 「……うん」 「早く大人になりたい、そう思ってる」 「……うん」 「大人になって、幼なじみなんて関係、早く終わらせたい」 「……うん」 「なんでか、お前解るか?」 よく解らないシカマルの話にとりあえず首を横に振ってみたら盛大な溜め息を背中に感じた。解らないよ。解るのはやっぱりシカマルとの間にある壁はもう壊せないってことだけ。大人になりたいシカマルと子供に戻りたい私。お互いの認識の差が悲しくて、落ち着きかけた涙腺が、また緩み始めた。 「……お前のためだろが」 「……え?」 ぴたり。土を掻く指が思わず止まった。私の、ため? シカマルの言葉の意味が解らない。何を言いたいのかもまるで解らないのに、それでも私のためというその言葉が私の思考を乱して考えようにも考えられない。返事すら出来ずに俯いたままの私の背中に再びシカマルが溜め息を零した。 「お前さ……オレのこと、嫌いなワケ?」 「ち、ちが、違う」 「ならよ」 ぐい。腕を引っ張られて途端に反転した世界。茶色一色だった視界が突然黒一色に染まって、背中には自分のものじゃない確かな感触。込められた力の強さ、伝わってくる温度に、ようやくシカマルに抱きしめられているのだと気付いた。心臓が、痛い。 「シ……カ、」 「傍に、いさせてくんねえ? 幼なじみじゃなくて、一人の男として、よ」 「! う、ウソ……だ、だって、私……やってること、子供みたいだよ?」 「今に始まったことじゃねえだろ」 「シカマルのこと、引っ張り回して、迷惑、かけちゃうよ?」 「慣れてる」 「シカマルの嫌いな、めんどくさい女、だよ?」 「めんどくさくねえよ」 「それに、それに……」 「もういい、黙っとけ」 背中に回された腕に、更に込められた力。もう、あの頃とは何もかも違うことにほんの少しだけ胸が痛んだ。だけど、シカマルが傍にいてくれる。泣いたり笑ったり、あの頃とは違う意味での楽しい毎日がきっと待ってるんだ。そろり。そっとその胸に頭を預けて。広くなった背中へと腕を回したなら、その温もりに誘われるように、私は目を閉じた── . |