なまえは死ぬ気で走っていた。もちろんタカナから逃れるためでもあったが、今の状況はまさしく言葉通りの疾走だった。このままタカナに捕まって想いもなにもかもをズタズタにされるくらいなら、自ら命を投げ出すことをなまえは選択したのだ。その目には寸分の迷いなどなかった。どこにそんな力があったのか足は岩場を登り、山道を駆けても止まらなかった。相変わらず背後から響くタカナの声は少しずつ遠ざかっているように思えた。



「はあっ、はっ……」



 やがて目の前に開けた光景になまえはようやく足を止めた。轟音鳴り響くぽっかりと穴の開いた空間。自分のいる位置よりもまだ高い場所から流れ落ちる大量の水はそのまままっすぐ暗い穴へと飲み込まれていく。



「滝……」



 思わずごくりと喉が鳴った。夜ということもあるのだろうが、水が流れ落ちていく滝底はまるで奈落の底まで続いているのではないかと思うほどの暗闇だった。身を投げ出したが最後、あの暗闇に飲み込まれてすべてが終わるのだ。



「お母さん……今、行くからね……」



 一歩を踏み出した瞬間だった。背後から聞こえてきたタカナの声になまえの体は一気に強張った。足音は迷うことなくまっすぐこちらへと向いている。もう逃げ場などどこにもない。しかし命を絶つと決めたからか、なまえの心は激しく鳴る鼓動とは裏腹に静かに凪いでいた。ひとつの覚悟を胸になまえは静かに振り返り、タカナへとまっすぐ向き合ったのだった──










 下卑た笑みを浮かべたタカナはなまえの姿を捉えたことで一層その笑みを濃くした。もう逃がさない。逃がすつもりもない。



「鬼ごっこは、もう終わりかい?」

「……私の話を、聞いてくれますか?」

「話……?」

「……十三年前、私はある男の子と約束を交わしました」

「……」

「それはとても他愛のない……けれど、とても優しい約束でした」



 なまえの眼差しはどこか遠く、懐かしいものを思い出しているようだった。しかし一瞬のちに瞼は伏せられた。辛そうに眉を寄せたなまえの表情はひどく儚げなものだった。



「十三年経って……里に戻ってきた時、すぐにその子に会いに行きました。けれど、その子は……」

「覚えて、いなかった……?」

「はい……約束も、私のことも、その子の記憶には残ってはいなかったんです」

「……」

「正直、裏切られたと思いました。悲しくて、辛くて……」



 そこでタカナは合点がいった。好きなヤツはいるのかと問うたあの日、なまえはきっとその男を思い浮かべていたのだ。辛そうに無理やり笑顔をつくるあの日のなまえが脳裏に浮かび、タカナはぐっと拳を握る。



「だから、オレの傍にいれば……!」

「でも、」

「っ、」



 まっすぐ見つめる瞳にタカナはそれ以上言葉が出なかった。なまえは微笑んでいた。頬を雫で濡らしながらも、それでもその表情は穏やかだった。



「それでも……その子との約束のおかげで私は生きてこられた。どうしても、嫌いになんてなれなかった……!」

「なまえ……」

「だから……、だから……!」



 まっすぐ見つめるその目が、タカナへと謝罪を告げていた。どう足掻いてもなまえの心からその存在は消せはしない。それがひどく歯痒かった。今すぐその体を引き寄せ、滅茶苦茶にしてやりたい。そんな衝動に駆られた瞬間。



「……ありがとう、さよなら──」



 それは本当に一瞬の出来事だった。なまえの体がかくんと傾いたかと思うと、背後の闇へと吸い込まれるようにその姿が消えていったのだ。滝の轟音だけが辺りに響き、まるで初めから何もなかったかのような光景にタカナの思考が一瞬停止した。



「なまえ……?」



 状況が飲み込めなかった。今の今まで確かに自分の目の前にいた。隠れるところなどどこにもない。のろのろとなまえの立っていた場所へ這っていき、そこに残された足跡を目にした瞬間、タカナは何故なまえが自分と向き合ったのかを理解した。
 最初から、こうするつもりだったのだ。だからこそ、なまえはなまえなりの誠意を持って最後に話してくれた。タカナの想いには応えられないと、その命でもって拒絶したのだ。



「あ、ああ……! うあああっ……!」



 タカナの叫び声がこだまする森の中。優しい月の光だけが、変わらずその姿を照らしていた──



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