「なまえ……」



 愛おしそうに自分の名を呼ぶ声。肌に触れる指先の温度に嫌悪感から吐き気がこみ上げてくる。
 もう、限界だった。あの日から今日までの日々を堪えることができたのはシカマルとの約束が唯一の支えとなっていたからだ。けれどシカマルは自分とのことを何ひとつ覚えてなどいなかった。そう、自分もタカナと同じなのだ。独りよがりな想いをただ押し付けて、相手の気持ちなど考えもしていなかったのだから。そう思うとなまえの口からは知らず乾いた笑い声が漏れた。もう、なにもかもがどうでも良かった。ただ楽になりたい、そう思った。母親が殺されたことも、その後の生活も、それらすべてを背負ってきたなまえの精神はすでにボロボロだった。そして今、タカナの行為によってそれはいよいよ崩壊寸前まできていた。



「抵抗、しないんだ?」

「……」



 もはや抵抗などする気にもなれなかった。この悪夢のような行為が早く終わればいい、ただそう思っていた。タカナの言葉に返事をすることすら煩わしく、なまえは諦めたようにそっと目を閉じた──










「──ってやる。だから、帰ってこい」



 なにもかもを諦めたその時、なまえの脳裏を掠めたのはあの日のシカマルの言葉。ハッとして開いた視界に映った月には、少し怒ったような表情を浮かべたシカマルの姿が確かに見えた。



「シカ、マル……」



 ぽつり。その名を呟いた瞬間、月に重なったその顔が微かに微笑んだ気がしてつられるように口角が上がる。今にして思えば生涯でいちばん幸せな記憶だった。今ならまだ間に合う。幸せな記憶を抱いて綺麗なままにこの生を──。そう考えた途端、先ほどまで力の入らなかった体が驚くほどに反応した。タカナが行為に集中していたせいもあるだろうが、渾身の力を込めて押し返したタカナの体は瞬間ごろりと地面を転がっていた。



「なまえ……?」

「っ、来ないで!」



 距離を詰めようとするタカナを睨み、必死に後ずさる。足はみっともないほど震え、立っているのがやっとだった。それでもなお、必死に距離を取ろうとするなまえの姿にタカナの心はどうしようもなく苛ついた。



「なまえは……お前はオレのものだろう? オレの傍にいるのがお前にとっていちばん幸せなんだ」

「違う! 違う違う違う!」

「なまえをいちばん想ってるのはオレだよ? だから、」

「そんなの関係ない! 私の幸せは……私が決める!」

「なまえ!」



 ふらつく足をそれでも懸命に動かしながらなまえは駆け出していた。背後からタカナの怒声とともに自分を追う足音が響いてきたがなまえは振り返らなかった。自分の純潔を守って死ぬこと、ただひたすらそれだけを考えながら、なまえは足を動かし続けていた──










「あそこだ」



 鼻をひくつかせパックンが指す先へとシカマルは視線を向けた。鬱蒼と生い茂る木々の先。気配を殺しながら足早に移動し木陰から様子を窺う。しかしそこにはひとりの影さえも見当たらない。地面に降り立ったシカマルとパックンは茫然とその場に立ち尽くす。



「どういうことだ……?」

「一足……遅かったようじゃな」

「! これは……」



 見覚えのある衣の切れ端にシカマルは愕然とした。なまえが好んで着ていた色のそれは無理やり破られたのか無残な形となってパックンの口にくわえられていた。考えたくもない光景が脳裏に浮かび、知らず手が震える。



「なまえ……」

「まだそう遠くへは行っとらん。追うぞ」

「……」



 シカマルは動けなかった。目の前に突きつけられた状況に頭がついていかなかった。衣の切れ端を握りしめ、茫然と地面を見つめるその姿は動くことを忘れたように固まっていた。



「若造!」

「っ、」



 苛立ったようなパックンの声にようやくシカマルは我に返った。振り返れば厳しい表情を浮かべたパックンが自分を睨みつけていた。



「しっかりせんか! なまえがここにおらん、血の匂いもせんとくれば逃げておるに決まっておる! 早く見つけてやらんと今度こそ……なまえが危ない!」

「っ、なまえ……!」



 ぐっと唇を噛みしめ、深い闇の奥を睨みつける。二度と傷つけないと誓ったなまえは今頃どんな思いでいるだろうか。俯きかけた顔をあげ、ひとつ頷いたならシカマルとパックンは再び闇の中へと駆けていった。



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