傷を付けたのは自分──そう告げたタカナに、なまえは目の前が真っ白になった。そんなはずはない。記憶の中の人影はすでに成人していただろう上背だった。タカナの年齢は解らないが、それでもせいぜい自分と二、三違うくらいだろう。だとしたらあの頃にそんなに背が高い訳がない。そう、あの日タカナは確かにあの場にいなかったはずなのだ。



「訳が解らないって顔してるね」

「……っ、」

「……オレはあの日確かにあそこにいたよ? 震えながらなまえちゃんが入ってきたのも見てた。当然だよ……だって、なまえちゃんのお母さんを刺したのは、オレの父親なんだからね──」

「!」



 タカナの言葉はなまえの精神を徐々に追いつめていく。殺さなければならないほどの感情を抱かせるような何かを母親がするはずがない。少なくとも自分に対しては優しく暖かい母親だった記憶しかない。おびただしい赤の中心で横たわる母親の恐怖に歪んだ表情。それを思い出したなら、なまえの心中には例えようのない感情が芽生え始めていた。



「……して、」

「ん?」

「ど、して……お母さん、を……」

「……親父はなまえちゃんのお母さんに好意を持ってたから」

「……え」

「うちも母親いなかったから心配だったんだろうね。時々なまえちゃんのお母さんが差し入れ持ってきてくれてさ……そんなことされたら男って単純だから惚れちゃうに決まってる。そう思わない?」

「……」

「だからあの日、親父はなまえちゃんの家に行ったんだ。自分と一緒になって欲しいってプロポーズしにね」

「!」



 瞬間、なまえの脳裏には再び母親の無惨な姿が浮かんだ。それと同時に湧き上がった違和感に息がつまりそうだった。好意を持った相手をあそこまで無惨な姿にできるものなのか。拳をぐっと握りしめ唇を噛みしめるなまえを至極楽しげに見つめるタカナの口は止まらない。



「よくある話だよ。断られて、逆上して……」

「やめて……」

「とっさにテーブルの上にあった果物ナイフで、」

「っ、やめて下さい!」



 これ以上は聞きたくなかった。手で耳を塞ごうともがいてみるも、タカナの腕に拘束された体は自由がきかない。言いしれぬ嫌悪感に駆られて必死で体を捩るなまえの頬は知らず雫に濡れていた。



「まあ……いいか。それよりこの傷の話だよね」

「っ、」

「どこまで、覚えてる?」

「お、かあさんが……倒れてて、お母さん、の横に立ってたひと、が……」

「なまえちゃんに、刃物を向けた?」

「は、い……」



 くすくす。返事をした瞬間に耳元に響いたのは笑い声だった。それと同時に解放された体は呆気なく地面へと崩れ落ちる。力なく見上げた先、月明かりに照らされた顔は狂気に満ち、もはやなまえの知るタカナはそこにはいなかった。



「そっか、覚えてないんだ。残念……」

「……あっ!」



 どさり。背中に軽い衝撃を感じた瞬間、先ほどまで視界に入らなかった月が真上に見えた。次いで体全体に感じた温もりと圧迫感。見上げていたはずのタカナが、息がかかりそうなほど近くで自分を見下ろしていた。



「タカナ、さん……?」



 声が震えた。目の前にいるのは確かにタカナのはずなのに、まるで別人のような錯覚さえ覚えてしまう。体は知らず震え、抵抗する力さえ根こそぎ奪われてしまったようだった。タカナの手が伸びてくるのを視界に捉えながら、どうすることもできないままになまえはただ見つめることしかできなかった。



「覚えてないならいいよ、でも──」



 ぐっと掴まれた上着が瞬間左右に大きく広げられた。衣の裂ける音とともに衝撃で弾けたボタンが辺りに転がる。露わになった胸元と首筋をひやりとした外気が撫でる感触。そしてなによりタカナの飢えた獣のような眼差しに、いよいよなまえは言葉すら紡げない。



「もう、オレしか見えないようにしてあげるから──」



 ゆっくりと近付いてくるタカナの顔。ぶれていく視界の中、浮かぶ月に重なったのはずっと焦がれていたあの顔。小さくその名を呼んだなら、なまえの目尻からは一筋雫が零れていった──



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