無言のままに手を引かれ、歩き続けてどれくらい経っただろうか。夕陽はすでに僅かな光を残して沈んでしまい、目を凝らさなければ周囲の判別もつかないほど薄暗くなっている。やがて足を止めたタカナは辺りに誰もいないことを確認すると、ようやく握っていた手を開放してなまえに向き直った。



「ごめんね」

「え……あ、いえ……」



 痛かったのだろう。握られていた手を無意識に庇うように隠し、そう口にしながら曖昧に微笑むなまえにタカナの心がざわついた。こうしてふたりでいるこの瞬間でさえ、胸中ではきっと別の男を想っているのだろう。合わされることなく泳ぐ視線に無性に苛つき、タカナはなまえの顎を無理やり掴んで顔を上げさせた。



「っ、」

「なまえちゃん」



 不安の色に滲む瞳がタカナの声に促されてようやくゆっくりと瞳を上げた。それに満足そうに微笑むと、タカナは顎を掴んでいた手をなまえの頬へと移動させる。



「ねえ、なまえちゃん」

「は、い……」

「オレに、嘘吐いたよね」

「……え?」

「好きなヤツなんていないってアレ……嘘なんだろ?」

「!」



 僅か数センチの至近距離。薄暗い中でもはっきり見えたタカナの表情になまえの肌は一気に総毛立った。これは屈託なく笑っていた数週間前のタカナと本当に同じ人物なのだろうか。無表情だというのに瞳だけがギラギラと肉食獣のような獰猛さを放ち、まっすぐに自分を見つめている。



「タカ、ナ……さん?」



 歯の根が噛み合わない。不安は言い知れぬ恐怖へと変わり、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったように息が苦しい。浅く呼吸を繰り返すなまえの視界は知らず滲んできた涙でぼやけていた。



「知ってるよ? なまえちゃんのことならなんでも、ね。そう、たとえば……背中に十字の傷がある、とか」

「!」



 タカナの言葉になまえは驚きに目を見開き、とっさに身を竦ませた。何故。どうして。あの頃の知り合いでもない限り、知っている者などいないはず。そんな疑問が顔に表れていたのだろう。タカナが至極楽しげに口角を上げた。



「オレのこと……忘れたの?」

「え……?」



 訳が解らない。タカナとは数週間前に声をかけられたあの日が初対面のはずだ。なのに自分たちが顔見知りだと言わんばかりのタカナの口振りになまえの脳内は混乱していた。いくら思い出そうとしてもタカナという名は記憶の引き出しからは出てこない。



「確か……横の傷は肩甲骨の上。それから縦の傷は……右肩から背中の真ん中あたりにかけて……だよね」

「! なん……で、」



 何故タカナが傷の場所まで知っているのか。ぞわりと肌が総毛立ち、得体の知れない恐怖に体が震え始めた。そんななまえをますます楽しそうに見つめるタカナの瞳。その奥には狂気じみた光が宿っていた。



「なんで知ってるのかって? ははっ、そりゃ知らなきゃおかしいだろ?」

「!」



 瞬間、なまえの体はタカナの腕に抱き寄せられていた。背中に回された手は、ゆっくりと、しかし確実に傷跡を辿っていく。その感触が肌に伝わる度に、得体の知れない何かがじわじわと自分を追い詰めていく感覚に囚われていく。



「あの日のなまえちゃんは……綺麗だったよ。白い肌に赤い血がよく映えてた」

「!」

「この傷はなまえちゃんがオレのものだっていう証。いわば所有印だよ」

「あ、あ……」



 何を言っているのか。タカナの言葉の意味が解らない。まるで鈍器で殴られたような衝撃に思考回路は完全に停止し、荒い呼吸を繰り返しながら、ただ目の前にいる男を見つめることしかできない。そんななまえににこり微笑んだタカナが耳元に唇を寄せ、まるで内緒話をするように囁いた瞬間、なまえは奈落の底に突き落とされたような深い絶望感に頭が真っ白になっていくのを感じていた。



「この背中の縦の傷、つけたのは──オレだよ」



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