帰路に着いたのは日付の変わる少し前だった。何も言わずにこんなに遅くなったことは八重が来てからは一度もない。きっと心配をかけていることに胸を痛めながらなまえはそっと玄関を開けた。



「遅かったのう」

「!」



 玄関を閉めた途端にかけられた低い声。驚いて振り返れば段差に座り込んだ自来也が静かにこちらを見つめていた。



「……ごめんなさい」



 怒られる──とっさに目を瞑り、なまえはその身を竦ませる。けれどいつまで経っても自来也は沈黙を保ったまま。不思議に思っておそるおそる瞼を開ければ、ただ静かに見つめる瞳と目が合った。



「あの……」

「外は寒かったろう。茶でも飲むか」

「……はい」



 怒られなかったことに安堵したのかホッと息を吐き、後ろから申し訳なさそうに付いてくるなまえに自来也は息を吐いた。パックンから報告を受けてから数時間、今度こそなまえは己を見失い、もしかしたらもう帰ってこないのではと憂えていたがための安堵の息だった。辛いだろうに、そんな表情を一切見せないなまえが自来也は歯痒かった。まだ自来也の元へ来たばかりの頃、今よりは素直にその感情を顔に表していたなまえを思うとやるせなさが募る。今までなまえが置かれていた環境を思うと、年相応の娘と同じように我が儘を言えというのも無理な話だ。しかしそれでも尚、自来也はなまえの支えとなってやりたかった。それは、子供のいない自来也の胸に初めて沸き起こった父性だった──













「私、働こうと思います」



 向かい合った居間で、自来也はなまえの口から出た言葉を信じられない思いで聞いていた。伏せられた瞼はしばらく逡巡した後ゆっくりと上げられ、自来也の瞳へと視線を合わせる。その目の奥には凛とした光が宿っていた。



「……何故?」

「……八重ちゃんを、学校に行かせてあげたいんです」



 それは八重が来てからずっと考えていたことだった。まだ幼いうちからあの家で働いていた八重は学校というものに通ったことがなかった。日常に困らない程度には簡単な読み書きを教えてはあったが、それでもなまえは八重にもっと広い世界を知って欲しいと思っていた。



「八重を学校に行かせるのは賛成だ。しかしそれならワシが、」

「いいえ」



 凛とした声が自来也の言葉を遮り、ぴんと張り詰めた空気に自来也は思わず息を飲んだ。半ば思い詰めたようななまえの雰囲気にもはや言葉も出ない。



「これは、私のためでもあるんです」



 続いた言葉に自来也は何故なまえが急にこの話を持ち出したのか理解できた気がした。新しい環境に身を置くことで何かを、おそらくシカマルへの想いを掻き消そうとしているのだろう。しかしそれだけではない何か別の思惑があるらしく、なまえは言いづらそうに視線を落とした。



「それに……いつかは、きっと、」

「……なまえ」

「っ、いつ何が起こるかなんて誰にも解らない、だから……」



 自力で生きていけるようにならないと──そう呟いて寂しそうに笑うなまえに自来也は一抹の寂しさを覚えた。いつか必ず別れる日が来る。それは母親を殺されて日常が一変したなまえだからこその発言だった。幼いが故に何も出来ずにただ耐えるしかなかった毎日は否が応にもなまえの自立心を育んでいたに違いない。



「……好きにするといい」

「……ありがとう、ございます」

「だが、これだけは覚えておいてくれ」

「……」

「無理は、するな。辛ければいつでもワシを頼れ」

「自来也さま……」

「お前も八重も、ワシの大切な娘だからのう」

「っ、は、い……」



 娘──自来也の口から出た言葉に瞼の奥がじんわりと熱を持ち始める。自分はもうひとりじゃない。こうして大切に想ってくれる自来也が、自分を慕ってくれる八重がいるのだ。



「自来也さま」

「ん?」

「……お父さんって、呼んでも、いい、ですか?」

「!」



 なまえの言葉に自来也は目を見開いた。共に暮らすようになってからの三月、なまえはずっと自分を「自来也さま」と呼び、一線を画していた。どこか他人行儀だと少しばかり寂しく感じていた自来也にとって、それはなまえとの間にあった壁が漸く崩れた瞬間だった。



「……娘だと、言ったろう? わざわざ聞く必要はないのう」

「! は、はい!」



 嬉しそうにはにかむなまえに自来也もまた目を細めた。そしてこのことを知ったシカクの反応を思い浮かべたなら、自来也の口角は緩く上がっていた──



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