title | ナノ
 ジャーファルと一度、キスをした。



 とても、寝苦しい夜だった。夜風にあたろうと自室を抜け出して、王宮の中庭を望む石廊下の吹き抜けに佇んでいた。庭師が丹精込めて世話をしている中庭はとても美しく、月夜に照らされるその風景はとても甘美だった。

 ほどよく眠気が蘇り始めたところで、自室へ戻ろうと踵を返した。そのとき、ちょうど、黒秤塔から帰るところだったジャーファルと出会ったのだ。


(ジャーファル様)


 王であるシンドバッドの傍らにいつも立つ彼は、ただの文官ではない。下っ端の下っ端であるなまえは、身体を深く折り曲げて頭を垂れた。

 彼はその様子に少しだけ苦笑を漏らした。


(こんばんは、なまえ。頭を上げなさい)


 一瞬、名前を呼ばれたことに思考が止まった。下女のような存在である自分の名前を覚えてくださっていた、という事実に驚いたのだ。相手に気付かれるか分からないほどの微妙な時間に我に返る。その言葉に従って、ゆっくりと頭を上げた。

 ジャーファルと言葉を交わすのは、これがはじめてではなかった。片手で数えられる程度で、内容は事務的な、「書類を戻しておくように」だとか「円卓の準備をしておくように」だとか、そんなものだったけれど。

 だからこそ、名を呼ばれたことに驚いたのだ。彼のように上に立つものにとって、自分などその他大多数でしかないだろうから。


(何をしていたんですか)


 静かに訊ねられた。なまえは寸前まで脳内を巡らせていた思考を中断して、中庭を眺めていました、と返答した。


(少し、寝苦しくて。夜風にあたろうと思って、こちらに)

(ああ、ここはいい風が来ますからね)


 納得したように、ジャーファルもそこから下方に広がる中庭を見下ろした。

 遠く、遥か遠くに見える海に、月光が反射している。その反射した光も、闇夜に浮かぶ月光も、中庭の花々を照らしているようだった。

 ほう、と感嘆したようなため息が聞こえた。


(これは、美しいですねえ)

(はい、とても)


 なまえも小さく頷いて、視線を戻す。

 シンドリアは南国で、加えて島国だ。動植物の生態系は他国と比べて独自性が高い。逆に言えば、他の国にあるような一般の動植物が生きにくい国でもある。

 だから、この中庭に咲き誇っている花々も木々も、すべてシンドリアの植物たちだ。赤や黄色や青、といった原色系の色彩を持つ花々が、我先にと太陽を目指して上へと顔を向けている。彼らにとって最も恵みを与えてくれるものは、人の手でもなく水でもなく、太陽の光なのだ。


(まるで、月光までも食らっているような貪欲さを感じます)


 夜になれば太陽は沈む。だから、植物達に栄養を与えてくれるものはなにもなくなる。けれどここに住まう彼らは、夜に鎮座する月の光すらも自分のものにしているような、そんな空気を感じてしまう。

 ただただ高みを、上を。――彼らのそのような姿勢は、ひょっとしたら国王の影響もあるのかもしれない。


(月光を食らう、ですか。詩的ですねえ)


 ジャーファルはなまえの言葉にくつくつと笑った。少しだけ、恥ずかしくなる。眠気が戻り始めていたせいなのか、普段なら言わないようなことを口走っているような気がする。

 子どもっぽい、とお思いになられただろうか。気付かれないように、ちら、と隣を見やった。その小さな動きすら見透かされていたようで、――黒の瞳と、かち合う。


(私は、好きですよ)


 息が、止まるかと思った。


 目があったことにでも、普段見ないような笑みを見たことにでも、彼の声音がはじめて聞く色を持っていたことにでも、どれでもない。

 その言葉の意味を、勘違いしてしまいそうになった自分に、心臓が止まりかけたのだ。


 自分は、何を。――なんて馬鹿げた、ことを。


 思考が止まった頭は、ちゃんと働いてはくれなかった。はっとした頃にはかち合っていた黒に引き込まれてしまう寸前で、なまえは慌てて目を逸らす。


(だめ)


 耳たぶに声がかすったと同時に、左手首を掴まれた。ひんやりとしていた手のひらが、ジャーファルのものだということに気付くのに少しだけ時間がかかった。

 掴まれた手首を、そのまま強く握られる。引っ張るわけでも引き寄せるわけでもない彼の手のひらは、それでも離さないという意志に溢れていた。


(そらさないで)


 何を、――何に。


 だって、違うでしょう。あなたとわたしは身分も立場も雲泥の差なのに。事務的な会話しかしたことがないのに。こうして、こうやって言葉を交わすことも、触れることも触れられることも、あるはずはなかったのに。

 だからその言葉は、違うでしょう。


(なまえ、そらさないで)


 そんな、懇願されるように呟かれたら。


 なまえは、ゆっくりと顎を持ち上げた。唇が震える。ジャーファルの黒と、かち合った。引き込まれてしまう。眩暈にも似た何かが、きっとそこにはあったのだ。

 ジャーファルは、小さく目元を緩めた。どこか、切り裂かれたような笑顔を浮かべて、手首を掴んだ手のひらをするすると下げていく。

 指先同士が絡まった。冷えた手のひらの温度が、じぶんの温度と溶け合っていく。かたい指先だった。#なまえ#はゆっくりとそれを絡め返す。この人に、温度を与えたいと思った。


(ありがとう)


 掠れ声を鼓膜が拾ったと感じたときには、既に唇を塞がれていた。

 その感触よりも、目の前に広がる彼の顔よりも、その声音が震えていたことになまえは衝撃を受けていた。あの、ジャーファル様が。いつも前を向いているこの人が。あんなに、湿った声を出すだなんて。

 呼吸はすぐに出来た。唇を離されてすぐに、ジャーファルのもう片方の手のひらがそっと頬に触れた。こちらの手のひらも、温度は低かった。こつん、と額同士が重ねられる。


(忘れることが、できますか)


 額同士を重ねているせいなのか、彼の声が頭に直接響いてくるようだった。#なまえ#は小さく目を伏せた。


 忘れること。――今日この夜に、自分とこのような行為をしたことを。こんなふうに、恋人みたいに触れ合っていることを。指を絡めて額を重ねて、呼吸を交わしたことを。


 ひどい、とは思わなかった。それどころか、納得していた。

 きっと、彼に尋ねても、どうしてキスをしたのか答えてはくれないだろう。それと同時に、どうしてそんなことを言うのかも答えてはくれないのだ。黒の瞳を小さく伏せて、官服の裾で口元を隠して、密やかに笑うのだろう。


 ならば。


 ジャーファル様、と呼んだ。はい、と小さく返事をしてくれた。それだけで充分だった。


 忘れます。ちゃんと忘れます。朝が来たら、すぐに忘れます。だから、まだ、――もういちど、だけ。


 知らない間に縋るようについてでた言葉は、すぐに掻き消された。手のひらに動かされて、唇を浚われる。その時、はじめてちゃんと彼の唇の感触を知った。奥深くまで呼吸が押し付けられて、手放せるものが何もなくなったなまえは、縋るように絡めた指先同士を強く握った。


 きっと、もっと傷ついているのは、ジャーファルのほうなのだ。


 わたしもきっと、同じように傷ついている。けれどこの人は、――この、不器用なひとは。


 どこで呼吸ができるようになったのか、覚えていない。知らない間に唇は離れていて、頬に添えられていた手のひらも、絡めていた指先同士も、いつの間にか離れていた。

 まるで何もなかったかのように存在しなくなった温度に、それでも瞳は、かち合う。


「約束ですよ」


 夢だと誤魔化すには残酷すぎるくらい、彼の言葉は今もここにある。

 約束は、まだ果たせていない。



13.04.21
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -