ピアノソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」



海の奥底から、一気に引き上げられた。まるで、そんな感覚。
何もない暗闇から一転して、眩しい光に目を細める。見慣れているけれども、自分の家のものではない壁紙。
あぁ、一体何がどうなったんだ。
その言葉を吐き出そうとして、代わりに出たのは深いため息だった。
ベットから起き上って、前髪をくしゃりと握ってみたところで答えなどではしない。
でも、確か俺は自分の部屋に居たはずなのだ。....いつも通り1人で目が覚めて、冷たいシーツに1人嗤って。

再び肺から二酸化酸素を吐き出して、代わりに酸素を吸い込む。
微かに匂う薬品独特の匂い。嫌いではないが、好きではない。それなのに、この匂いに安心する自分がいる。
それほどまでに俺は新羅の家に来ているのだろうか。

.....新羅の家に来る。それはすなわちその数だけシズちゃんと喧嘩した、ということだ。
その数だけ、シズちゃんは俺に殺気を抱いたのだ。....殺したいと思うのなら、はやく殺してくれればいいのに。
いっそ、ひと思いに。
いつの間にか右手に握っていた無機質な物体をきつく、握り締めた。


「....シズちゃんって、ひどいよね。突き落とす前の優しさ、なんていらないんだけど。」



深いため息の代わりに、今度は震えた声がでた。駄目だ、泣くな、泣いたところでどうにもならない。
でもそれでも堪え切れなくて、頬に涙が伝う。
誰もいない部屋、でもそれでもどうしても見られたくなくて目の上に載せた掌に握られているそれは、
紛れもなく鍵、だった。
俺の家の鍵、そう俺とシズちゃんとの関係が始まってしばらくたってから渡した鍵だ。

おそらく俺を新羅のところまで運んできたのはシズちゃんだ。
シズちゃんは出て行く時、律儀に鍵を閉めて行くような人なのだ。だから、あの部屋から俺を連れ出すには鍵が必要。
俺の家の鍵、なんて俺とシズちゃん以外には波江さんしか持っていない。

波江さんは一昨日から休みを取っている。だからどう考えてもシズちゃんしか俺を運び出せる人はいないのだ。
戻ってきた理由は、どうせ忘れ物をしたとかそういうことだろう。
それで偶然ぶっ倒れてる俺を見つけて、放っておけなくて、ここに連れてきた。

でも、俺が目が覚めたときにはすでに人の気配なんてなくて、あるのは渡したはずの合い鍵。
俺に鍵を返した、ということはすなわちこの関係を終わらせるということだろう。
...突き放すくらいなら、あの部屋で倒れてままにしておいてほしかった。
だって、そうだろう?
最後の最後に優しさを与えて突き落とすだなんて、ね。いくら俺でも心にくるものはある。



「やっぱり、そうだよね。....初めからわかってたことだったのになぁ...」



愛のない関係など、簡単に脆く朽ち果てる。
それでも、なんの言葉もかわされないままの、一方的な別れは痛かった。
でも、それでも愛のない関係を求めたのは紛れもなく俺自身だ。自分で傷つく道を選んだのだからこの胸の痛みはきっと自業自得で。



「はははは、.....馬鹿、みたい。っははは」



愛してもらえないのなら、代わりに心に刻みつけてほしかったのだ。永遠に消えない抉れた傷を。
シズちゃんにしてみれば、俺のしていることも嫌がらせの一環、と何ら変わりないのであろう。
嫌いな奴を抱く、なんて普通に考えてシズちゃんにとってみればただの精神的苦痛なのだから。



ついに笑い声さえも震えて声にならなくなった。ただ涙がとめどなく溢れてシーツを濡らす。
きっとこんなに泣いたことなんて、ない。昔から、めったに泣いたことがなかったから、泣きやみかたを忘れてしまった、きっとそう。
だから、こんなに涙が出てくるんだ。最初から覚悟していたことだから、大丈夫だと思ってたのにね。おかしいな。


なんどもなんども濡れた目を擦っていると、気がつけばいつもきているシャツのそでが涙でぬれて手頸に張り付いてきた。
するとそれでも止まらない涙をどうしようか、とぼんやりと考えていた俺の上に何かが、落ちてきた。
素直にそのタオルを顔に押し当ててみたけれど、次から次へと溢れ出てくる涙は止まってはくれなかった。



「本当に、不器用だね。君は。」

「....っうるさ、なぁ...」

「自分の気持ちを嘘で固めるから息ができなくなるんだよ。一つ嘘をつけば、それが嘘だとばれないためにまた嘘をつかなくてはいけなくなる。」

「...なんなの、しんら...」

「嘘をつくのに必死だから、大事なものが見えなくなるんだよ。」



いつの間にか俺の傍に立っていた新羅の手が、優しく俺の頭を撫でた。
その温かさが、愛のないセックスの時のシズちゃんの手の温かさに似ていて、嗚咽がこみ上げる。
心の奥底に閉じ込めようとするのに、どうしようもない感情がこみあげてきて俺の涙腺を次々にノックする。
必死になって唇を噛むけれど、堪え切らず口に出す。



「...っシズちゃ...しずちゃんしずちゃん...シズちゃん...好き...」


言葉にすると、さらに胸が痛くなる。もう、シズちゃんが俺の部屋に来ることも俺の肌に触れることもない。
俺とシズちゃんを繋ぐものは全て断ち切られたのだ。鍵は返された。
望んでつけられた傷は、痛くてただ痛くてどうしようもなくて。
これからどうしようかと考える。シズちゃんにとって愛のないセックスが嫌がらせの一環ならば、また前のように殺し合いをすればいいのだろうか?
そうすれば、この胸の痛みを忘れることができる....?


「本当に馬鹿だよ、君も彼も。」



呟くような新羅の声は、俺の嗚咽にかき消された。
答えを見つけられないまま、泣き疲れた俺はそのまま再び目を閉じた。





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とりあえず半分まできました....!!
....最初は別の展開になる予定だったりしました(笑
まぁこういうこともありますよね....^^;



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