ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2『幻想曲風に』



後悔はしていない、と胸を張って言えたらどれだけ楽なのだろうか。
きつく掌を握り締めたところでそれをぶつけるさきなどなくて、ゆっくりとふりあげた腕を下した。
むしろ殴るべきは俺自身だ。最低だと、思う。でもやめられない。
そこに例え心がなくても、それでも求める俺はなんて愚かなのだろうか。


「.....タバコでも、吸うか。」


そういえば、今日は一本も吸っていない。昼前になろうとしているのに、まだ一本も吸っていない、というのは俺にしてみれば奇跡に、近い。
いつからか吸う本数が多くなったそれを、口にくわえて気づいた。
どこのポケットを探っても、見当たらないのだ。いつも使っているライターが。
口から洩れたのは、どこに落としてきたのだろうか、というような心配ごとではなく、深いため息だった。
落とし先がわからないのなら、まだよかったのだ。
その方が、見つける気も失せるしまた新しいものを買おうとも思える。

残念なことに、今回の落し物はどこにあるか分かっているのだ。
おそらく、臨也の家だろうと思って再びため息をついた。


火の付いていないタバコを銜えたまま、深く息を吸った。
目を閉じてすぐに浮かぶのは、つい先刻まで行っていた情景であった。
いろいろなものが散乱した床、ぐちゃぐちゃになったシーツに、汗で張り付いた黒髪。
白いからだには、青痣に加えて、噛み痕やキスマークが広がっていた。

世間一般的に、俺の敵と位置付けられる折原臨也の体にその全ての傷を刻みつけたのは、紛れもなく俺自身だ。






事の始まり、というか全ての元凶は俺だ。
高校を卒業して、あいつが俺の前から一時的に姿を消して、再び現れた、たしかそのくらいの頃の話で。
視界の端に黒い影が揺らいだ。その瞬間に俺の中の何かが、音をたてて切れたのだ。
体が震えた。心の奥底から何かがこみ上げてくる感覚がして、抑え込む暇もなくそれが爆発した。
引き寄せられるように体が動いて、走って、走って、走って.....

そっから先は正直ほとんど覚えていない。
ふと我に返った時には、俺の下には臨也が居て。
俺は臨也の首に手を掛けていた。無意識のうちに俺は何をしているのだと思って、反射的に手を放して、俺は絶句した。
きつく目を閉じた臨也はぴくりとも動かなかった。
けれど、俺が驚いたのはそのことではなかった。マウントをとったような体制から思わず立ち上がった。


冷たいコンクリートに横たわる臨也は、かろうじで腕にコートを引っ掛けているだけで、その他はなにも、身にまとっていなかったのだ。
外気にさらされた肌は傷だらけで、場所によっては噛み痕さえあって。
...太ももには、俺が出したであろう精液と、血が混じり合ったものが流れていた。


「...嘘だろ、おい....」


やってしまった、と思った。
本当のことをいうとこうなることを予想していなかったわけではないのだ。
俺は、ずっとあいつのことが好きで、だから怖かった。
いつか俺の中のバケモノが暴走して、最悪の事態を引き起こすのではないか、と。


恐れていた事態が現実になった。
臨也に触れようとした、指先が震えた。おそるおそる肩を叩いてみても、体をゆすってみても目を覚ます気配はなく、ただ時間だけが過ぎて行った。



臨也が目を覚ましたのはタバコを一箱、空にしたところだった。
赤い目が、俺を捕えて.....。謝らなければ、と思った。謝って許されるような事態ではないが、それでも謝らなければ、と。
けれども、先に口を開いたのは臨也だった。
コートをきちんと着直し、一瞬太ももを伝う液体を見た後、笑って、言ったのだ。


「...俺たち、体の相性はいいみたいだね。俺ならシズちゃんも本気で抱けるんじゃない?」

その瞬間、目の前が真っ暗になった。
俺は、臨也が好きだった。だから、謝って、俺の本当の気持ちを伝えて、と身勝手ながらそう思っていた。
だが、所詮それはありえないハッピーエンドだったのだ。
臨也にとって、俺はその程度の存在だったのだ。無理矢理に抱かれて、傷つくまでもないような存在。
あいつにとっての俺はあの瞬間からたかがセフレと変わりはないのだろう。






そこから現在へとこのなんとも言えない関係がずるずると続いているのだ。
全ての元凶は、一応俺なのだから、こっちから切ることもできない。


感情のない関係は、ただただ苦しいだけだった。
いまさら俺の思いを口にしたところで、臨也は拒絶どころか信じることさえしないだろう。
言えない苦しさは、確実に俺の首を絞めていった。


「だから、殴る....よくねぇことぐらいわかってるけどよ、」


自分から離れられないのなら、相手から、というのはなんとも身勝手だ。
わかってるのに、俺は行為に及ぶ度に臨也を殴る。
それも中途半端な力で。
気を失うには足りない、でも平然と笑っているには痛いような、そんな中途半端な力だ。
殴るなら、本気で殴ればいい。頭ではそう思うのに実際そうできないのは........。


口から、頭から、血を流したところで臨也は俺から離れてはくれない。
それどころか、流れる血を気にすることすらなく、俺の手を取って笑うのだ。
小さく、呟くように。


「あいしてるよ、しずちゃん。」


そのたびに錯覚を起こしそうになる自分に腹がたって、再び臨也を殴る。それを繰り返し、繰り返す。終わりのない、そうエンドレスリピート。



後悔するのは、いつも全てが終わった後だ。
初めて臨也を犯した後、それから臨也が気を失うまで抱いた後。
動かなくなったそいつをゆっくりと寝かせて、それ以上何もできない。
気を失っている相手でも、臨也は臨也なのだ。何もしないという保証はできない。
だから、いつも行為が終わったら俺はすぐに立ち去る。無防備な臨也に、俺は指一本触れることさえ、できない。ただの臆病者だ。

臆病者、というより単に俺は卑怯なのかもしれない。
1人で眠る、臨也の頬に流れる涙を知っている。
時折苦しげに、ごめんと呟き、うなされる姿を知っている。
でも、それでも俺が臨也に触れることは、ない。

夢の中で、臨也が追い求める人物の、身代わり、などりは絶対になりたくないのだ。
身代わりとして、偽りの感情で愛されるのは死んでもごめんだ。


「...ライターとりに行くか...」


なかなか一歩を踏み出せない足を、一度強く殴って俺は来た道を戻り始めた。
ふと瞼を閉じたときに描き出されたのは、あのとき俺に、体の相性はいいみたいだね、と笑いかけた、臨也の今にも泣きそうな赤い目だった。
未だ、その涙の膜の意味を問いただせないまま、俺は罪を重ねた。

ぽつり、ぽつりと降り始めた雨を鬱陶しく思いながら、ただ心の底から臨也がまだ目覚めていないことを祈った。



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話進んでない、ですね....あれ?おかしいな...



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