【掌編】それを指折り数えて幾千年D
2013/08/24 01:15
緑の髪の男は、ただの人間だ。寿命か、あるいは天命が尽きれば死ぬ。
それまでに魔女とどれ程の時間を共にできるのだろうか。精霊はありきたりな物語を想像し、感傷に浸る。
「君たちは、よく似てる」
卓上に並べた石板を摘まみ、精霊は一人呟く。
「もっと仲良くするべきだよ」
青年の指が、並んだ石板を一つずつ撫でる。
表面に彫られている文字は、精霊には何の意味もないものだったが、ふと、これを読めるようになりたいと、思った。
「名前か……」
青年は。精霊が知っている青年ユーグは、勤勉で実直と呼ばれる類いの、多くの人間にとって歓迎を受けるに値する人物であった。彼と別々であった時分、よく紙を捲る音を聴いた。
何を読んでいたのだろうか。人間は書物を非常に高価なものであると考えていたし、青年もまたそのように扱っていた。かつて青年の家であったこの邸にも、多くの書物が並んでいた。今は、何もない。
知る術が、精霊には残されていないのだ。
「……ユーグ」
名前を呼んだところで、青年は目覚めない。精霊は銀杯を取り、中身を揺らす。
「ユーグ」
窓から射し込む光を反射する水面は、青年の顔を写しだす。長い前髪の隙間から見え隠れする青年の目は、虚ろにこちらを見据えている。
雨の日は広がってしまって困ると、肩に掛かる髪を一枚布で纏めて隠していた。女のようで人目に晒せないのだと笑い、蝋燭の小さな灯の下で文字を追う。全て覚えている。橙色の瞳は感情豊かに変化し、思い悩む様子さえも精霊を惹き付けた。
今はただ、外界を映す玉でしかないものが、青白い顔に浮かぶ亡羊の嘆を見せている。
「ユーグ、ユーグ」
青年の肩をその手で抱き、青年の声で青年の名を呼ぶ。通り雨はやんだのに、空気は凍みいる。水中で抱き止めた青年の体はみるみるうちに熱を失って、己と溶けてゆくような満足感があった。
「……メーベル」
精霊の声で、石板の一つはサラリと砂になり崩れた。
「イェージィ」
また一つ。
愛ではないのか。精霊は魔女の顔を思い起こす。緑の髪の男に対する魔女のそれは、やはり愛ではないかと思う。けれど、魔女は肯定することはない。
魔女に教わった名を全て呼び終えると、円卓の上には砂だけが残った。
呼び続けていても語り続けていても、こうしていつかは消えてしまうのだろうか。
青年は紙を捲り、何を求めていたのだろう。知ろうとしなかったことを、今更後悔する。部屋を埋め尽くす蔵書は、捨ててしまった。
雨は止み、鳥の声が遠くに聞こえる。精霊は決めた。
緑の髪の男には、永遠の命を与えよう。魔女は人間らしく抗うはずだ。どんなに近くにあっても、解り合えないことは、すでに知っている。
「ユーグ、外に出ようか」
ユーグは応えない。それも知っている。
精霊が幾千年でも目覚めの日を楽しみに待とうと考えていたのは、間違いであったのだ。
もしかしたら、もっと以前から間違っていたのかもしれない。
空は澄みわたり、青年の足が土を踏むと、雨など知らぬように乾いていた。
世界は、青年が呼んでいた“世界”というものは、そういう性質を持つのだ。
これが真理なのだから、だから、止むことなく慈愛の雨を降らせてやろうと、精霊は決めた。
古い収穫の唄を口ずさみながら、精霊はその身で生きる月日を大切に指折り数えていこうと、独り思う。
(おわり)
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