log2 | ナノ


 入学して、清志に誘われるままバスケ部マネージャーになって、もう三年目。わたしの恋も、三年目を迎えた。一年目は見てるだけ。二年目は見てるだけじゃ物足りなくて近づいて。拒否されないことをいいことにどんどん近くへ、側へと足を進めた。三年目は、我慢できなくて、言葉を紡いだ。チープで軽い、たった一言の愛の言葉。「…本気なのか」。なんて、びっくりしたような、覚悟が決まってたような顔をして言うのだから、私は笑ってしまったものだ。「本気です。でも、何も言わないでください」。彼は本当に、小さく頷いただけで、なにも言わなかった。



゜。



 誠凛のデータを脇に抱えて、紅茶のペットボトルを一つ。疲れて重い足が今だけは軽やかに動くのだ。これぞ愛の力。ふんふんと鳴り出した鼻歌に、通り過ぎる人たちが不審そうに首をかしげるがそんなことを気にしている場合ではない。パタパタ、ペタン。旅館のスリッパが阿呆みたいな音で笑う。浮かれる私を笑う。まぁいいのだ。いいのだ。今日の私は向かうところ敵なし。恋する乙女最強伝説なのだ。湿った髪からぽたりと水滴が落ちた。

「あれ、お前なにやってんの?」

 聞き慣れた声に後ろを振り向いた。「清志か」。ヘアバンドで前髪を上げている清志は、やはりイケメンだ。モテるわけである。そんな彼の腕に抱えられたバスケットボールが「どう、いい彼氏でしょう」と言っているように感じてしまうのは、清志が生粋のバスケ馬鹿だからだろうか。バスケが恋人。彼が言ったことはないけれど、きっとそう思っているはずだ。小脇に恋人を抱えた清志が、「どこ行くんだよ」と問うた。

「監督のとこ。データ渡しに」

 そう言って脇に挟んでいたA4の紙をひらひらと振ると、清志は眉間にシワを寄せて「あーね」と言った。「ご苦労さん」。首の後を掻きながらかけられたねぎらいの言葉に、私は小さく礼を言った。清志がわたしの顔をじーっと見つめながら「にしても」と話を切り出した。

「お前、ほんっと監督好きだよな」
「え? あーうん、好きだよ」

 ひやり。ちょっとだけカラダが冷えた。清志が言う好きは、「このお菓子美味しいから好きなんだ」の好きだ。そこを履き違えると大変なことになる。だいたい、一般常識とかいう枠にきっちり収まって考えれば、ただの女子高生が部活の監督を好きになるなんてことは考えられないだろう。清志は敏い人間だが、真面目だ。だからこそ、安心できる。真面目だから。

「なんつーか、飼い犬と飼い主って感じ」
「だってさー、監督の隣落ち着くんだよ。マイナスイオン出てんの」

 ははは、口元だけで笑ってみせれば、清志も笑う。「はやく寝ろよ」。そう声をかけて清志は恋人を抱えて立ち去っていった。ああ、羨ましいなと一瞬だけ思った。私も恋人として、彼の隣にくっついていられたらいいのにな。そうしたらきっと、幸せなんだろうな。だって、清志に抱えられたバスケットボールは、今までみたバスケットボールの中でも、一番幸せそうに見えたから。ああ、いいな。私は小さく呟いて、廊下を進む。ペタペタ、パタン。スリッパが笑う。見知らぬ人間とすれ違いながら監督のもとへと急いだ。マネージャーの私に与えられた部屋と真逆に位置する部屋にすこしだけ監督の陰謀を感じながらも、ただ足をすすめる。たどりついた部屋のドアを、丸めた拳で三回ノックした。

「かんとくぅ」

 小さな声で扉に声をかけると、「開いているよ」と穏やかな声が返ってきた。ああ、シアワセ。にやにやとしながら扉をあけると、未だにスーツ姿の監督が椅子に座ってお茶を飲んでいた。がやがやとした音で、テレビを見ているんだと理解する。監督、テレビとか見るんだな。部屋に入り込んで、脇に挟んでいた資料と、手に持っていた紅茶をつやつや光る木製のテーブルに置いた。座布団にあぐらをかいて座る監督にすら、ときめいてしまうのだから、わたしってばそうとうの“恋する乙女”なのかもしれない。それこそ、人魚姫くらい、盲目的な。私はいつもどおりの声で言う。

「はい、誠凛のデータです」
「これは?」
「わたしの紅茶」
「……居座るつもりだね」
「えへへ」

 にっこり微笑むと、監督は「すきにしなさい」と渡したデータに目を通しはじめた。三年生のマネージャーはわたし一人だ。もう一人いる一年生のマネージャーは、二軍と三軍のサポートのため、学校に残っている。すなわち、わたし以外に女はいないということだ。だから、部屋に何時に戻ろうが構わないのだ。監督もそれをわかっている。まぁ監督の部屋から朝出ていくわけにも行かないのできちんと割り当てられた部屋に戻らないといけないのだけれど。
 監督のとなりに置かれていた座布団に小さく正座をした。監督は特に咎めることもせず、じぃっと、わたしがまとめたデータを見ている。がやがやと笑い声を発すテレビの音を気にしている様子はなかったけれど、わたしは邪魔になるだろうとリモコンに手を伸ばして電源ボタンを押した。テーブルに置かれていたガラスの小さなコップに、こぽこぽと持参した紅茶を注いだ。揺れる赤色のストレートティーの海を眺めながら、コップの縁を指でなぞった。

「仁亮さん」

 小さく、本当に小さく。まるで子供のナイショ話みたいに、そっと名前を呼んだ。彼は資料を読んでいた目をわたしに向けた。

「……なんだいなまえ」

 躊躇ってから紡がれたわたしの名前に、背徳感と幸福が足を揃えてやってきた。いつもは名字でしか呼ばないけれど、二人のときは、たまに、名前で呼んでくれるのだ。わたしはこの瞬間がたまらなく好きで、泣いてしまいそうになるのだ。絡み合う視線に、監督は「ダメだよ」と言った。

「ダメだよ、なまえ。まだ、ダメ。君はまだ高校生で、私はバスケ部の監督だ。あと半年もすれば、その関係が終わる。だから、まだ、ダメだ」
「仁亮さん、だって、苦しいんだもの。言うくらい、いいでしょ?」

 わたしが彼に想いを告げた後、彼に言われた。これから先、もう二度と愛の言葉を言ってはいけないと。今の「生徒と監督」の関係は、変えることは出来ないし、覆ることもないのだと。だから言ってはいけない。その関係が終わるまで、二度と。彼はひどく悲しそうな顔で言った。まるで子供を叱りつけるような顔で、まるで自分にも言い聞かせるように。
 彼が、膝に置かれたわたしの手をそっと握った。しわのある、乾燥した掌だ。ぎゅう、と手を握られると、なんだか気持ちが落ち着くような気がした。ずっと握っていられるだろうか。こうして隣に、寄り添っていられるだろうか。歳の差が、立場が、わたしたちを切り取ってしまわないだろうか。いつか、誰も知らない街へ行けたらいい。だれも、わたしたちのことなんて見ないような、寂しい小さな街に。冷えていく心臓をごまかすように、わたしはそっと息を吐いた。

「仁亮さん」
「なんだい」
「……仁亮、」
「なんだい、なまえ」
「言えないことが、こんなにも辛いなんて」
「……そうだね」

 愛の言葉を囁くことが、難しいことだと知ったのは、彼を好きになってからだ。好きで居ることがこんなにも苦しいのは、彼がはじめてだ。どうしたって変えられない立場、年齢。愛に障害はつきものだと大人はみんな言う。けれど、障害なんて、くそくらえ。彼と愛を語り合い、肌を寄せ、暖めあう事ができないなら、海に沈んでしまえばいい。王子を殺すでもなく、自身の身を投げるでもなく、二人でゆっくりと、沈んでいくのだ。そしたらわたしは。わたしたちは。静かな海底でそっと息を繋げるようにキスをして、身体を寄せあって深く深く落ちていくのに。

「……なぁ、なまえ」
「なぁに、仁亮さん?」
「いつか、私から言う。だからそれまで、いい子で待っていてくれるかな」

 彼はそう言って、わたしの頭をそおっと撫でてくれた。慈しみ、悲しみ、拒絶するくせに求める彼を、わたしはきっと、心から愛してしまっているんだ。ずるい人。諦めさせてくれない。好きでいろ、なんて言わないのに、そうさせる人だ。まぶたを閉じて、彼の肩にもたれかかった。伝わってくる体温は、暖かく、まるでわたしを受け入れているように感じた。子供で小さなわたしを、求めてくれていると思っても、いいのだろうか。

「それまで、ずっと、仁亮さんのことを思い続けるわ」

 彼がわたしのほほを撫でた。つぅ、と伝った涙をしわの刻まれた指が拭う。目をうっすらと開くと、彼はその指をぺろりと舐めた。

「しょっぱいね、海水みたいだ」

 ねぇ仁亮さん、あなたと沈むなら、甘い甘い海がいいわ。骨に染みるくらい甘い、ガムシロップがたくさん入ったストレートティーのような、海がいいわ。そうしたらあなたは、幸せそうに笑ってくれるのかしら。


12.09.29
企画:ntlrさまへ提出