log | ナノ
「ほんと、やんなっちゃうね」

 ブランコを軽く揺らし、影で遊んで、些細な出来事を笑うような素振りで、彼女はそうオレに言った。見つめたその横顔は、困ったように微笑んでいる。仕方がないと諦めているように、表情をつくっている。
 別れた方がいいのかなあ、と彼女はぽそりと呟いた。別れる、というひどく重たい言葉を、彼女は躊躇なく紡ぐ。何処か俯瞰しているような物言いは、事の渦中の人物であることを忘れさせるようだ。まるで他人事、まるで興味ない、と言わんばかりの雰囲気。実際はちっとも他人事でも興味ない訳でもないのに、彼女は素直に生きれない。泣きもせず、悲しみもせず、淡々と、困ったなあという顔で笑みを浮かべる。オレはただ、彼女の独り言のような呟きを消化も出来ず、受け止めることしか出来ない。やりきれなくて、どうしようもなくて、たまらなく息苦しい。

「別れたいなら、別れればいい」
「投げ槍だね」
「……結局は、アンタ達が決めることだろ」
「まあ、そうなんだけどさ」

 夕焼けに染まる公園に、俺と彼女の影がたゆたう。重ならない闇が煩わしくて、いっそのこと消してしまいたいと思う。地面を蹴ってブランコを揺らしても、当たり前に何一つ変わらない。その事実に、訳もわからず苛立つ。

「あいつはさ、私なしでも生きてけるんだよね。いてもいなくても大きく変わりはないってかんじで」
「……なら、」

 彼女の表情が、微々たる変化を起こした。諦めの笑みが、ちりちりとした火傷を耐えるものに、かわる。流れゆく空気が、オレの肌に、そのことを突き刺すように教えた。

「そんな簡単に別れられないの、黄瀬が一番わかってるでしょ」

 ――勿論とも。オレが一番、アンタ達のこと分かってる。浮気されて傷付いて、じゃあ別れようっていうと磁石みたいに離れられなくなって、もう一度スタートラインに立って頑張って、でも少ししたらまた浮気されて。そういう悪循環の塊の渦で生きてるってこと、分かってる。
 だからアンタが、ずうっとずうっとしあわせになれないのも、知っている。
 考え出すと止まらないのは人間の性だろうか。思い出すと感情が駆け出すのは記憶の性だろうか。オレは何回も何回も、この光景を見てきた。彼女が困ったように微笑を浮かべて、オレと話して、またやり直す姿を。やり直したって結局の結末は同じなのに、一人で足掻いてきたことも。何回もぼろぼろになって、廃れた愛を握っていたことも。
 けれど、涙は流さない。
 彼女は弱くならなかった。脆弱な部分は心の奥底に沈めて、どんなことがあってものらりくらりと悲しみをかわして、自分を崩さなかった。オレと話していても、その笑顔は壊れなかった。だから余計に苛立ちが募る。今だってそうだ。普段と何一つ変わらず笑っていて、痛みに呻く声は聞こえない。本当はどれだけ辛いのだろうか。本当はどれだけ泣きたいのだろうか。
 どれだけ、あいつが好きなのだろうか。
 ――私、彼と幸せになるんだ。
 心底嬉しそうに彼女がそう言ったのは、何時のことだっただろうか。神様の祝福を一身に受けたような微笑を、オレはもうずっと見ていないのを思い出す。たまらなく好きなのだと言っていた。彼と幸せになるんだと笑っていた。困ったようなものでも諦めたようなものでも、ましてや痛みに耐えるものでもない、あたたかな笑顔だった。だからオレは彼女を応援しようと、彼女の恋を見守ろうと、このささやかなる感情を押し込めたのに。
 どうして、アンタもオレも、幸せになれない。

「黄瀬?」
「なん、スか」
「泣いてるの?」

 頬に伝う生ぬるい水の感触に、はっと気付く。彼女の声。オレの涙。暗闇を呼ぶ夕焼け。揺れるブランコ。全部が密やかに育った想いと共に涙腺を刺激する。何で泣いているんだ。どうしてオレが、どうして。めくるめく心の動きとは裏腹に、オレの瞼からはひたひたと、透明な水滴が落ちていく。止まらない。止められない。火傷よりもずうっと痛い。在処もわからない心が、痛い。

「どうして泣いてるの」

 彼女が問うた。ブランコとブランコの間が、やけに遠く感じる。涙は流れゆくばかりで、まるで一つ覚えの幼子ようだ。言いたいことが溢れだしそうなのを堪えて、言葉を選んでいく。さながら子供のように、何もかもをぶちまけられるオレではないから。
 違うんだ、これはただ、悔しくて――。

「どうして黄瀬が、泣いちゃうの」

 その一言に、オレは彼女の方を振り向く。見つめた先の彼女は、はじめて泣きそうな顔で此方を見つめている。困ったようなものでも、諦めたようなものでも、痛みに耐えるものでもない、泣きそうな表情。切なげに歪められた、心臓の傷を抉られている顔。

「……黄瀬に泣かれたら、私、どうしたらいいのかわかんないよ」

  ――このだだっ広い世界で、オレも彼女も一人ぼっちで、誰に寄り添うこともなく生きている。同じ痛みを抱えているのに、同じようには分かち合えない。すれ違い。一方通行。どうしたってぶつかりはしない。だから、オレの幸いと彼女の幸いは違う。どんなにオレが彼女を幸せにしたくたって、彼女を幸せに出来るのは、彼女が愛したあいつしかいない。例えオレが彼女を幸せにできたとしても、それは本当の幸いではない。彼女の一番を与えられるのは、あいつしかいないのだ。
 そんなこと、もう嫌と言うほどわかっていたのに、オレは今更ながら痛感した。皮肉なことに、あいつしか彼女を泣かせられない。だって、今目の前の彼女は、泣いてない。その瞳から、感情は溢れていないのだ。それが悔しくて悔しくて、たまらない。何でオレじゃないんだろう。何でオレに、彼女の傷さえも抱える権利はないんだろう。
 でもオレは知っている。これからも彼女はオレの前では泣かないこと。オレがこうして涙を落としても、彼女はそれを掬おうともしないし、ましてや自分も同じように泣く、なんてことはしないこと。手にとるようにわかる。彼女はオレを選ばない。彼女はオレに傷つかない。だって、オレが一番彼女を見てきたから。

「……ごめん」

 泣きそうな表情を曖昧に消して、彼女は困ったように、つい先ほどの表情と同じように笑った。いいよ、とも何で、とも言わない。彼女はただただ、笑う。それが彼女が引いた線引きだということに気付けないほど、オレは子供ではなかった。けれど彼女の笑みに傷付かない程、大人にもなれない。
 せめて声をあげて泣くことはないようにオレは俯いて、目を瞑った。真っ暗闇の世界に逃げ込もうとしたけれど、隣にある彼女の温もりがオレの傷をなぞる。それが余計に涙腺を締め付けて、離さない。報われないだとか叶わないだとかそんな言葉で言い表せない程、オレの恋は不毛だった。
 ブランコに座る二人の影は、平行線を辿る。もうずっと、ずうっと、重なることはない。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -