◎ 名前を呼んだ日
皆が寝静まる夜。
赤獅子団の宿舎に、ひとつの足音が響いた。辺りは暗く灯りはこれっぽっちもない。それなのに、その足は迷う事も無くひとつの場所を目指していた。
人影がコンコン、とドアを叩く。ドアの隙間から漏れる光を見るに、まだ寝てはいなかったのだろう。すぐに入れと返ってくる。
「鍵も開けっ放しなのか、団長」
「放っておけ。何の問題もない」
遠慮なく部屋に入ってきた男ーバグデマグスの姿を見る事もなく、エイゼルは眺めていた資料をサイドテーブルに投げた。ベッドから立ち上がり、執務用の机上にあった水を口に含む。
「今日は少し遅かったな」
「寄り道をしていた」
「余りにも遅いと我は寝るぞ?」
「起こせば良いだけだ」
そう短いやり取りをして、バグデマグスがエイゼルに近付く。少し傷んではいるが煌めく金色の髪に指を通した。手入れをすればもっと綺麗になるのにと残念がっていたのは銀狼団の団長だっただろうか。まったくもってその通りだと、ここまで近くで見てバグデマグスは思った。
「ヤるならヤろう、バグ」
「…ああ。団長が言うなら」
妖しく微笑んだエイゼルに応えるようにバグデマグスは僅かに笑み、その口を塞いだ。
ギシッとベッドが揺れて、エイゼルはふと目を開けた。特有の気怠さはあるものの、エイゼルの一番嫌いなあのベタつきはない。
「今日は…随分と優しくしたな」
地を這うような低い声で尋ねたエイゼルに、バグデマグスがパッと振り返った。
「団長…起きたのか」
「優しくする。身体は拭く。シーツは変える。……どんな心境の変化だ?バグデマグス」
「…別に。何もねぇよ」
「我にそんな嘘が通じるとでも?」
立ち上がって騎士団服に腕を通していたバグデマグスの袖を僅かに引っ張り、エイゼルがその赤い瞳を睨んだ。赤獅子団の団長は、隠し事を嫌う。それは誰もが知っている事だ。
バグデマグスはふっと溜め息を吐いて、ベッドに腰かける。
「銀狼に言われたんだ」
「…ガルモールか?」
「ああ」
「何を言われた」
自分の髪を弄りながらポンポンと尋ねるエイゼルに、バグデマグスはふっと溜め息を吐いてベッドに腰をかけた。
「労ってやってくれ、だとさ」
「…労る?」
「少しでも好きなら…ちゃんと考えてくれ、と」
部屋に来る前に言われた。
そう付け加えて、バグデマグスは視線を外に移した。
優しくするのはどうも昔から苦手だった。それでも、ガルモールの言う事は嫌でも理解できた。だから実践しようと思ったのだ。苦手でも、難しくても、ここまで手放したくないと思った初めての人だと、自覚はしているのだから。
「ま、あの人には俺が団長に無理を強いてる事くらいバレバレだったわけだ」
「何を言っている。我は無理などしてない」
「団長…それすらもう無理してないか?」
「してない」
すぐにそう返すエイゼルに、バグデマグスは眉をしかめてその頭に手を置いた。そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でる。
「団長がどれだけ多忙か俺も知らないわけじゃねぇ。今まで無理させてきたのは自覚済みだった。…償えるってわけじゃないしそんなものだとも思わねぇ」
「………」
「大切な人にくらい優しくさせてくれねぇか?団長」
珍しく弱気だな。
そう声をかけようとして、エイゼルは口を閉じた。バグデマグスはきっとこんな言葉は望んでいない。はぐらかすような答えでは無く、はっきりとした答え。それが欲しいのだ、こいつは。そう理解するとエイゼルはむくりと起き上がり、バグデマグスの瞳を覗き込む。
「その割にはお前、我の名前を呼ばないな。それはどうしてだ?」
「それは…」
「別に我もお前の事は好きだからな。大切に扱うも否もお前次第だ。呼び方も、然り」
「一応…団長だろ?」
「関係ないな。銀狼団のあのちっさいのはガルモールの事を平気で呼び捨てにする。それと同じだ」
そう言うと、エイゼルは近くにあったガウンを羽織ってシャワールームへ足を向ける。
「言っただろう?余りに待たせると我は寝る。」
「………」
「我は待たないぞ?今はお前の事が好きだからここに留まっているだけだ。我が気分屋なのは知っているだろう?」
最後に蠱惑的な笑みを浮かべて、エイゼルはシャワールームの奥へと姿を消した。
「名前、か…」
一人きりになった部屋で、バグデマグスはぽつりと呟いた。
名前を呼ばなかったのはたったひとつの逃げ道のつもりだった。優しくする事も、甘い言葉をかける事も不慣れな自分から逃がす為の道。
けれど、それも要らないものだと言うなら…。
「エイゼル…」
愛しい名前を、今度はきちんと呼んでみたい。優しさも甘さも無いとしても、少しの間は我慢してもらおう。
これからはずっと、その名前を呼んでいくのだから。
fin.
華音ちゃんのリクエストにお答えしてバグゼルでした!
バグデマグス書きづらくてつらいね!
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