02:この印が消える頃に



暗い座敷牢には月明かりが僅かに射し込む。

格子から覗く外界は真夜中特有の静寂が支配しており、僅かな風や草木の音だけが静まった空間に時折響く。

そんな空間に溶けていくように紡がれる唄。

闇の中で音もなく座敷牢へ向かっていた男は、堅牢な扉の前で足を止めるとその歌声に気付く。

扉を強固に封じる幾つもの結界などものともせず、男はするりと扉の向こうへ消えていった。



「随分懐かしい唄を歌っているな」

ふいに響いた低い声と気配に驚いた女は、唄を止め俯いていた顔を上げる。

「!!―――ふふっ、でしょう?なんだか急に歌いたくなっちゃって。…おかえり、蔵馬」

「あぁ、ただいま」

月明かりの射す格子の傍で女はくず折れるように座り込んでいた。

湿った藺草や埃、諸々の臭いが立ち込める室内を突っ切り、部屋の片隅に在る女の許へ向かう。

近づいてくる男に視線を合わせるために、女は姿勢を正すように躰を起こした。

その拍子に月の光で輝きを増す金糸の髪がさらりと流れ、薄い夜着とともに女の肢体へ絡みつく。

無法備な格好と相まって妖艶なその姿は遥か昔、童歌を歌い戯れた頃に比べると随分目の毒である。

しかし今は、彼女の柔らかな温もりに寄り添うだけで良かった。

女の横に腰を下ろし、その体温に触れて男は息を吐く。

女も男の体温に安堵し、力を抜いて身体を預ける。

僅かな逢瀬の時間を惜しむように身体を寄せ合い、互いに言葉を発することもない。

静かに時は移ろっていく。



互いの体温を分け合って数刻。

ふいに男の手は女の夜着の袷を開いた。

思い立ったようなその行動は毎回のことで、慣れた女は動じることなく好きにさせる。

「消えかかっているな―――」

いつものことながら朽ちてしまう華を惜しむように、男の指は肌をなぞる。

ついと指が滑った女の左胸には淡い紅。

吐息が肌に触れるほど近づいた貌には溢れんばかりの色気が漂う。

男の長い髪が肌を擽り思わず息が詰まった。

「…っふ、蔵馬擽ったい」

「我慢しろ」

うっすらと紅みがかった傷痕の上を柔らかな彼の唇が触れる。

「―――っ」

左胸がツキンと痛んだかと思うと唇が離れたソコには、また新たに艶やかな華が咲いていた。

蔵馬は満足気に刻んだばかりの華に触れると、静かに立ちあがる。

「…そろそろ出る」

「もう行ってしまうの?」

名残惜しくて手を伸ばすが、するりと袖に逃げられてしまう。

恨めしさに蔵馬を見上げると、蔵馬は端正な貌を歪ませ溜息を吐き、仕方ないとばかりに再び腰を据える。

「仕方ないだろう、仕事だ。すぐ来てやる」

ひんやりと冷たい手がそっと頬を撫で、そのまま髪を掬う。

さらりと落ちた金糸は彼の銀糸と混ざり、別れを惜しむように絡み合う。

ふと蔵馬を見つめると、彼は端正な貌を歪ませ険を帯びていた。

鋭い視線の先には忌々しい無機質な戒め。

女の華奢な足元から伸びるそれは、魔界で頭角を現し始めた程度の蔵馬にはまだ取り去ることのできないものであり。

視線に表れるその感情は戒めに対するものなのか、はたまた己に対するものなのか。

その心情に何とも言えない想いになった女は、再び彼に手を伸ばした。

「蔵馬」

今度こそ届いた手は先ほどとは逆に男の頬をそっと撫でた。

「もう、いいんだよ?」

自身こそが彼の戒めなのだと、女は十二分に理解していた。

していても手放したくないから、あえて触れなかった。

しかしそれも、もう潮時かもしれない。

訪れるたびに増える傷。

隠しているつもりかもしれないが彼特有の植物の香りの中で、殊更に薬草の匂いが最近は強い。

それがどんな意味を持つのか、さして鈍くない彼女には明らかなことだった。

縋ろうとしていた先程までの自分が、気付かないふりをしてこのままでいようと考えていた自分が―――強烈に醜く思えて。

突然膨らんだ焦燥感が、今が終わりの時だとばかりに女を急かす。

「蔵馬がね…苦しむ必要はないんだよ?わたし―――」

「―――――――――っ!!」

呆然とした蔵馬に言葉を重ねようと再度頬に触れたその時、強い力で伸ばした手を掴まれる。

ギリギリと音が立ちそうなほど強く握られた手首。

掴んだ本人は俯いたまま、表情を窺わせない。

「蔵馬?」

「―――まえは…お前は!俺が同情で、憐れみだけで、お前を救おうとしていると、本気で思っているのかっ!!」

怒気を露わに滅多にないほどの強い口調で女を責め立てる男の顔は、口調とは裏腹に痛みを受けたような、苦くどこか泣きそうな表情で。

穏やかに引き際を諭そうとしていた女の心も、つられて波立っていく。

高ぶった感情のままに零れてしまいそうになる涙を堪えた。

「だって―――」

そこから先は言葉に成らなかった。

「幼子の他愛もない口約束とでも思っていたのか?幼かろうと俺がそんな虚言をするような奴ではないことなど、お前が一番解っているだろうが」

芳しい植物の香りに溢れた大好きな彼の匂い。

手を取り戯れた幼子の時とは違う、大きな躰。

いつの間にか広い胸に抱きしめられていた。

その抱擁はまるで女に縋るように強く、己よりも高い体温に包みこまれる安堵感が、女の涙腺を強く刺激する。

溜息とともに吐き出された言葉が胸を衝く。

そう、解っていたけれど。

それだけに縋って生きていくには難しいほど、私たちの現状は変わっていた。

だからこそ、なにも求めず生きてきたのに。

逢えなかった幾年を過ぎ再び見えてから、いつの間にか欲深になりすぎた。

もうこれくらいにしないと、戻れなくなってしまう。

嗚咽を堪えて震える声が、優しい男を拒絶しようと必死に想いを綴る。

しかし心とは裏腹、身体は正直に彼を求め離れたくないとばかりに彼の衣を強く握っていた。

「今も昔も。お前に向けた言葉には、想いには、偽りなんてない」

「お前だって、もう俺がいなくては生きていけないはずだ。今更戻れるとでも思ったか?」

手遅れだ、と嗤った男の唇が目元に触れる。

男の勝ち誇ったようなその表情を見て、女は悟ってしまった。

運命だと受け入れていた自分はとうにいない。

押し殺していた想いなんてこの男には筒抜けだったのだろう。

彼にとってはそんな葛藤すら“くだらない”ことであって。

「必ず解放してやる、こんな処。だから―――待ってろ」

強い意志を持ったその声は女の揺らいでいた心をぴたりと静めた。

再会してから言えなくとも常に漂っていた不安は、その言葉で掃われる。

忘れていた。

彼は強い言葉に違わず必ず成し遂げる。

それだけの能力も精神も秘めている。

きっと―――大丈夫。

「そう…だね。蔵馬だもの」

「あぁ、お前は大人しく俺の帰りを待っていればいい」

「ふふっ、待ってるよ…ずっと―――」

信じていれば大丈夫。

もう迷いはない。

永き命が尽きようとも、彼の訪れを待ち続けるのだろう。

「―――しかしお前がそんなくだらないことで俺の想いを否定するとはな…

確かにお前の不安は理解できるが、俺も見縊られたものだ」

「―――っ、それはっ!…それは、その、あの……」

「おまけにお前、幼少の誓いも戯言だと思っていただろう?」

「!!」

表情としては穏やかなのに目が剣呑で。

聞き捨てならない発言に、すぐさま反論する。

「違うの!!誓いを戯言だなんて思ってない。ただ、あれから…随分と私たちは変わってしまったから―――」

しゅんと俯いてしまった頬を両手で持ち上げ、目を合わせられる。

「変わってしまった?どこが?

ここにいるのはただの妖狐が2匹。あの頃から何ひとつ変わっていない」

その不敵な笑みは、確かにあの頃から変わらないもので。

「確かに!私と蔵馬だね―――」

女はようやく、穏やかな笑顔を浮かべた―――



「……まぁ、それとこれとは別だ。仕置きが必要だな―――」

「しお…仕置きっ!?え、ちょっ…えぇ!?」

「当り前だろう?大人しく俺を待てるように、躾けてやる」

「ちょっ、やぁっ―――」

そうして僅かな逢瀬の夜は、誰にも知られず密かに更けていく―――



暗い室内に僅かな朝日が差し込む頃。

目を醒ませば、そこにもう彼はいない。

女が軋む身体を起こすと、夜着が肩から僅かに滑る。

露わになった素肌に咲く、いつもより大輪の華。

数は多かれ少なかれ、彼はいつも自分の印を刻んで去っていく。

「果たせない約束はしない」

再会してから消えることない、彼の証。

それを胸に私は箱庭を生きていく。

いつか再び、陽の下を手を取り寄り添って歩ける日を夢見て。





この消える頃に




「また来る―――」


鮮やかな紅が朽ちるまで―――

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