01:それは初めての感触
「名前。」
ふ、と読んでいた本に影が落ちる。
顔を上げればいつの間に近付いていたのか、蔵馬の端正な顔。
「んっ・・・」
クーラーの駆動音以外は窓越しに微かに聞こえる蝉の音くらい。
閑静な住宅街の一角、南野家の一室に、ちゅ、と軽いリップ音が響いた。
「なぁに蔵馬?」
「・・・うん。ちょっと、ね。」
ちょっと・・・なんだろう。
先刻まで同じように読書に勤しんでいた筈の蔵馬の抒情詩集は今見える範囲には見当たらない。
「読み終わったんなら私の推理小説貸したげようか?」
クス、と苦笑混じりに笑われて思わず首を傾げる。
「いいよ。読み終わったわけでもないし。」
言いながら蔵馬の繊細な指先が私の髪を耳にかけて密やかに首筋を辿ってきた。
くすぐったさに少し身をよじると、大きな掌が頬に添えられ、曖昧な笑みを湛えた蔵馬の顔が近付いてくる。
「っ・・・ふ、っ・・・」
さっきみたいな軽いキスと思いきや、予想もしていなかった荒々しい舌に軽く目を見開く。
「、・・・ごめん」
薄く開いた唇の端で吐息と共に吐き出された謝罪を受け取る間も無く後頭部を引き寄せられ、唇は更に深く重なった。
舌も呼吸も飲み込まれる。息が、詰まる。
「(・・・バイオリズム、か・・・)」
酸欠で靄がかってきた頭は意外と冷静に現状を分析していて。
うっかり小説のトリックに夢中になって気付いていなかったが、確かに蔵馬の妖気は変質し、爆発する先を求めて暴れもがいている。
「(気付いてあげられなくて、ごめん―――)」
衝動のままに喰らい尽くしてしまいたい本能と、私を大切にしたいと思ってくれている理性の狭間で蔵馬自身ももがいているのだろう。
どこか苦痛を滲ませた表情を少しでも和らげたくて。
謝罪や罪悪感なんて必要無いのだとわかって欲しくて。
言葉を紡げない口の代わりに、両手を蔵馬の頭と背中に回して、微笑んだ。
「っ・・・!」
今度は蔵馬が目を見開く。
泣きそうに瞳を歪めて。それでも幸せそうに微笑うから。
―――私は幸せだよ、蔵馬。
ざわ、と妖狐の気配が膨れ上がる。
生理的な涙で滲む視界に人ならざる証の耳が映る。
蔵馬が。この用心深く狡猾で、気を許した相手にでも全てを見せる事は無い孤高の狐が。
彼にとっての命綱である理性を手放して全てを曝け出そうとしてくれている。
これ以上の幸福があるだろうか。
人では無い証が幸せの象徴に見えた、等と言ったら彼はどんな反応をするんだろう。
自然と笑みが溢れ、吸い寄せられるように獣の耳に手を伸ばした。
―――ら。
「ッ、!!・・・ぇ・・・?」
ビクッと蔵馬の体が大きく震え、それまでの猛々しさから一転、完全に固まってしまった。
私もきょとんとしたが、それ以上に本人が戸惑っている。
「くら、ま・・・?」
痺れてしまった舌で呼び掛けてみても、困惑しきった瞳が揺れるばかり。
「なん、だ・・・?今、何か・・・何・・・?」
今まさに妖狐に還らんとしていた蔵馬の変化は、髪と目の色、そして耳と尻尾・・・というなんとも中途半端なところで止まってしまっていた。
・・・んーっと。
「名前ッ!!」
再び手触りの良い耳をさわさわと撫でてみたら、悲鳴のような声と共に手を払われてしまった。
よく見れば蔵馬の顔は見た事も無い程真っ赤に染まり、心なしか小刻みに震えて何かに耐えているようで―――これは。
「・・・感じすぎちゃった?」
「なッ・・・!!」
赤くなって慌てる蔵馬。珍し過ぎる。というより有り得ない。伝説の珍獣の次元。
思わず好奇に輝いてしまったであろう私の目から逃れるように一度顔を背け、大きく息を吸って、吐く。
「わからない、けど・・・」
気まずそうに、困惑は残したままたどたどしく話す様が非常に可愛らしい。・・・なんてとても本人には言えないけれども。
「何か・・・ストッパーが外れる、と、言うか・・・コントロールが、きかなく、なる・・・気が、して・・・」
「・・・コントロールの自信が無かったから最初に謝ったんじゃないの・・・?」
思わず突っ込んでしまった。
「ゔ。」なんて益々気まずそうになる蔵馬はほんっとうに珍しい。
正直、可愛い。楽しい。面白い。
もう少し遊んでみたい気もする、けど。
「蔵馬。」
そ、っと両手で蔵馬の頬を包み込んでこちらを向かせる。
これ以上中途半端な我慢大会は気持ち悪いだろうし体にも毒だ。・・・私だって気持ち悪いし。
「ここは、魔界じゃない。」
だから、ほんの一時自分を見失ったって寝首をかかれる危険の心配は必要ない。
「志保利さんはデートで遅くなるし、秀くんは合宿。」
だから、大切な安息の場所を掻き乱してしまう心配も、必要ない。
ひとつ、ひとつ。殻を外すように。
ひとつ、ひとつ。強張りを解いていくように。
「・・・本当、名前には敵わないな。」
情けなさそうに眦を下げて苦笑した蔵馬の瞳に、本能で狩る者としての鋭い光が戻ってくる。
「一応、忠告はしておくよ。」
ゆっくりと、蔵馬が覆いかぶさってくる。
「もう、止まらない。」
南野秀一のまだあどけなさを残した面差しの中で、瞳だけが金色に鋭く輝く。
「所詮オレはケモノだ。本能を解き放てばどうなるかなんてわからないし、責任も持てない。だから・・・」
―――お前に決めさせてやるよ、名前。
私の腕をとって耳元で囁かれたコトバ。
なんて偉そう。迷子の子犬になったり野性の肉食獣になったり、忙しい人。
でもそれでこそ蔵馬、なんて思ったりもするんだから、不思議。
「いいよ。蔵馬がコントロール出来なくなったら私がコントロールしてあげる。」
クスクス笑みを交わしながら、蔵馬の頭上の野性スイッチに手を伸ばした。
それは初めての感触
(ところでコレ、ちゃんと戻るんだろうな・・・)
(いいんじゃない、獣耳に獣尻尾。萌えアイテムでファン層も広がるでしょ。)
(・・・オレは名前にだけ好かれていたいんだけど。)
(あ、ゴメンね。私萌えアイテムより作り込まれたミステリーに燃えるの。)
(・・・・・・・・・・・・・。)