王女様と誘拐事件:Page.02

「エルナ!」

 ふいに、小屋の外から耳慣れた青年の声が聞き取れた。開きっぱなしの戸口からはみ出ている足で、中にいるのが誰か向こうには伝わっているようだった。

「こ、今度は誰だ!」

 慌てたように叫ぶのは頭上で苦い顔をしている犯人で。分かりやすく弱まった腕からするりと抜け出し、苦痛に耐えた喉元を擦る。座り込んで若干咳き込みつつも、茫然としている男を斜視すると、その胸板が揺らいだ。
 ぎょっとして目を見張ると、護衛が壁のように転げた男の眼前に立ちはだかっていた。一睨みすると、コンマ何秒の速さで膝を付き王女の無事を確かめる。

「大丈夫か、怪我は」
「う、うん、私は、大丈夫……後この子も」

 その気迫にたじろぎながらエルナが少女に視線を落とす。護衛も合わせて動いた、が。
 胡乱な眼が、護衛の背後で光っていた。重い物を引き摺り、持ち上げる鈍い音。護衛が振り向く前に、王女が彼を引き寄せた。

「う、っあ……」

 痛みに声を上げたのは、攻撃を受ける筈だった護衛ではなかった。

「エルナ?」

 振り向こうとした瞬間、突然胸に顔を押し当てられ、温かさに気付く間もなく一気に重石を乗せている感覚に変わった。
 そっと、指先で探るように彼女の背に触れる。ただそれだけの動作に、か弱い呻きが漏れた。思考が警鐘を鳴らす。

「おい、」

 だらりと垂れた髪と白い腕が見え、次に目に入ったのは、それをゆるりと流れる――真っ赤な、血。
 ようやく事態を理解した護衛が、消え入りそうな王女の吐息に声を荒げる。

「エルナ!」

 ――庇ったのだ。彼女は、俺を。
 悔しがる暇はなかった。今度こそはと、鼻息荒く護衛を狙う瞳がいる。
 唐突に、出処の判らない怒りが彼を襲った。彼女を横たえた次の瞬間には、柄に手を掛けていた。

「貴様」

 睥睨すると、男はひっと情けない音を発した。見せつけるように剣を抜くと、男は怯えた目でごくりと息を呑んだ。
 だが護衛は動かなかった。否、足元の違和感が彼を動かさなかったのだ。

「ダ、メ……ころ、し、ちゃ……」

 服の裾を弱々しく掴み、王女が懇願する。その痛みに歪んだ表情に、護衛は胸が詰まる思いだった。尚且つ、王女がそんな言葉を口にする理由が不可解でならない。

「お前は黙ってろ」

 怒りがまたも彼を押し上げ、無意味に冷たい返答をする。直後に罪悪感を抱いたが、しかし訂正する気にはなれなかった。
 王女の瞳が哀しげに細められ、見ていられずに顔を背けた。これが何時もの彼女なら、今頃張り倒されているだろう。

「あ、ああ、あ……」

 獲物を狙う獅子のような目で男を追い詰める。腰が抜けたらしく、実に嘆かわしい上擦った声で、男は何度も同じ音を繰り返す。下品なそれに神経が逆撫でされ、彼は握った柄を割らんばかりに握り締め構えた。
 ――殺しはしない。だが、それ相応の傷を付けなければ気が済まない。
 そうして、護衛が男に近付こうとした時。

「ジェラルド殿!」

 壮年の男性達の声が彼を引き止めた。衛兵と警官、それに孫娘を攫われた元老までもが姿を現す。
 少女の無事に安堵した彼等も、その隣に横たわっている王女の様子に絶句した。

「エ、エルナ様!」
「王女様!」

 彼女を取り囲み、皆が声を振り立てて名を呼ぶが、気を失った王女は応えない。衛兵の一人が、護衛に経緯の説明を求める。

「俺を……庇ったんだ」

 振り絞った音は掠れていた。やっとの思いで吐露した言葉が、また新たに負の感情を生んだ。エコーでもかかったかのように、彼の頭で鳴り響く。
 ――守られた。主を守るべき立場の己が、守るべき主に。
 自己嫌悪は止まない。幾ら自分を貶しても、全然足りなかった。

 護衛、失格だ。


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