(馬鹿と天才の中点)
彼女は学園の広い広い中庭で泣いていた。少なくとも僕にはそう見えた。
誰が彼女をそうしたのか、それはもう判っている。今、僕の視界に映ったから。
「君達、女の子を泣かせるのは良くないよ」
「煩ぇ、万年落ちこぼれは引っ込んでろ!」
残念な事に、僕は自他共に認める学園一の落ちこぼれ。彼等の文句にちょっとムカついて、そして悲しくなった。
そこで、俯いていた彼女の顔が怒りを露に彼等に向けられる。
「煩いのはあんた達よ。文句があるなら、実力で何とかしたらどう?」
彼女は涙一つ浮かべずに――僕の予想は外れた――、高圧的な笑みで彼等を挑発。彼等はあっさりと売り言葉を買い、学園の絶対的な規則である魔術の使用禁止を犯そうとした。
「調子にのんなよ貴様!」
僕は咄嗟にそれを押さえようとして、湧き出た恐怖心に押し止められた。兄弟のいない僕は喧嘩などに慣れていないので、本当に手を出して良いのか、出すにしても何をすれば良いのか分からない。
殴り掛からんとするリーダーっぽい男子が物凄いスピードで拳の周囲に陣を形成し、呆気なく魔術は発動された。
「あぶな、」
彼女に降り懸かる被害を避けようと近付くも、遅かった。何故なら彼女も陣を描いて魔術を発動したからである。
「なっ!」
彼等も驚いたらしい。僅か数秒で術を組み込んだ陣が彼女の足元に広がり、あっという間にリーダーが放った魔術を跳ね返したのだから、当然だろう。彼も彼女のように気が強くて自信家のようだったし、尚更。
もうもうと灰色の濃い煙が肌を撫でていき、僕は何度も咳き込んだ。彼女は大丈夫だろうか。
「そこ、魔術を使ったな! 全員職員室に来なさい!」
「やべっ」
早くも規則違反を嗅ぎつけたガタイのいい男性教師が、立ち込める煙に臆さず近づいてくる。
僕はおろおろするばかりで、逃げようとする男子生徒など放ってともかく彼女を見つけようと少しずつ前へ進んだ。
「逃げる気か!」
「放せよ! 俺だけじゃねえ、あいつもだ!」
治まり始めた煙の向こう、あのリーダーが教師にがっちりとホールドされ喚く。彼女に矛先を変えようとするが、そうする前に彼女が近付いた。
「確かに私もそうしたわ。でも先に因縁つけたのはあんたよ。正当防衛って言葉を知らないの?」
「煩え! 一人だけ逃げようとしやがって!」
「あら、規則違反の罪は認めたじゃない」
僕は遠回しに二人のやり取りを見つめていた。屁理屈とも取れる言葉に男性教師が水を差し、あえなく職員室へと連行される。
ついていくべきか否か踏み止まる僕の方を振り返り、彼女は言った。
「ほら、あんたも来なさいよ。大事な証人なんだから」
*************
教師の説教は延々と続き、時折僕にまで怒りが飛んだ。処分は追って言い渡すとの事だが、喧嘩を吹っ掛けた彼等とは違い彼女はどんな言葉に対しても澄ましているだけ。
僕ははらはらしながらも、こうして彼女の証人として空間にいる事が他人事のように、不思議だと感じていた。
そう遠くない過去。僕は彼女の存在を、紙の上と周囲の言葉でしか知らなかった。興味などない。黙ってその名を見聞きするそこには、何の感情も働かなかった。
心を動かさざるを得なくなった、進級先のクラス。偶々席替えで隣になり、無視出来なくなった日。
幻想のようにぼんやりしていた彼女の存在が、己の中で急速に人の形をしだして、その色濃さに僕はたじろいだ。ただの蜃気楼ではなかったのだと、紙の上と周囲の声に感心した。それ程までに希薄な事実だった。
もっと驚いたのは、向こうが僕を、名前だけじゃなく存在まで確認していた事だった。悪事を働いた罪人の心持ちで、天才の言葉に素っ気なく「そう」とだけ答えた、あの冷や冷やした感じは今も忘れられない。ただただ恐ろしかった。
回想していると、何を考えてるのと耳が拾う。余り良い表情でもなく、彼女が問い掛ける。すぐには答えられず、喉を詰まらせた。
「いや、その……何で僕も怒られたかな、と、思って、さ」
途切れがちに言うと、審査するように射抜く瞳。嗚呼、もうこれにも慣れてきたな。なんて、調子に乗るなと言われるだろうか。
「ま、良いわ。早く戻りましょ」
既に僕の世界を、心を、思考を構築する一つとなった存在が、さらりと背を向け進み出す。彼女はそんな事など識らない。僕の中で、勝手にそうなっただけだ。彼女はそんな事など識らなくて良い。
教室は少し騒然としているように見受けられた。やはり、さっきの騒動がこちらにも尾を引いているのだろうか。皆が皆、渦中にいた彼女を遠巻きに眺めている。相変わらず、当の本人は何食わぬ顔。
やがて休み時間の終了をベルが告げると、彼等の意識は彼女から離れた。それにほっとしてから、僕も静かに座った。
*************
放課後。罰として与えられた庭園の掃除を律儀にこなす僕に、彼女は「真面目ね」と評し、やる気なさげに座り込んでいた。
「そっちこそ。終わったの?」と僕が返すと、至極不機嫌な――今日の空のように灰色の――声がしおらしく「まだよ」と零す。
「僕もう終わるから、そっち手伝うよ」
「……いいわ。ちゃんと一人でやるわよ」
ぶつくさと不貞腐れ、痺れたらしく両足を引きずるようにしながら彼女は持ち場へと戻った。
自分を観察する目がなくなった事に落ち着きを取り戻し、僕は掃除用具を片付けに向かった。無理に手伝う気もなかった。
「あれ……?」
そこに居た誰かに、僕は見覚えがなかった。同じように罰を言い渡された彼等ではない。クラスメイトでもない。と言うか、知らない。
同い年位だろうか。見えている背中からは判断しかねる。まさか学院の事務用員とも思えなくて、その内にどうでも良いという倦怠感が現れ、僕はそのまま思考を放置した。
兎角その人の邪魔をすまいと、素早く戸を引いて用具を物置にしまう。そして静かに立ち去るつもりだった。
「…………」
視線。それも、強烈な。居た堪れず、かと言って露骨に彼の方を振り向く勇気はなかった。ちらと周囲を一瞥し、他に僕を見るような人間も居ない事を悟ると、急に怖い予感が体を震わせた。
沈黙。お互い存在を感知しながら、どちらも声をかけない。何故この人は僕を心底憎いと言うように睨むのだろう。知らずの内に、何かしたのだろうか。そんな事を知ったとて、僕にはどうする気もないし、どうにも出来ないままだ。
「……なあ」
陰ながら震える肩に、ふと声がかかる。誰に? 僕に? 解らず黙ったままでいると、冷たくも暖かくもない、微温い声がすぐ近くで零れた。
「なあ、お前だろ。最近あいつとつるんでんの」
あいつ? あいつって、誰だろう。そう思う片隅に、ぼんやりと答えが浮かんだ。
恐る恐る振り返る。顔は、やはり知らない。頭一つ高い彼はそれだけで言い様のない威圧感を与えてくる。
「あいつ、って……」
尋ねようとした時、視界の端に彼女が映った。僕の視線の動きに気付いたらしい彼も後方を顧る。
「何してんのかと思ったら、密会?」
何処か茶化して言う彼女の余り明るくもない声は、僕と彼を交互に見つめた。誰と言う問い掛けもないのは顔見知りだからだと僕は見当した。
「……知り合い?」
「腐れ縁よ。長い付き合いなの」
あっさりと恥じらいも見せず、ぶっきらぼうに彼女の返事。掃除はやっと終わったらしい。
「最近は会ってなかったわね。おばさん達は元気?」
「おかげさまで。学校じゃ久しぶりだな」
たったそれだけの会話で、僕は二人が幼馴染だと識った。識った、と言うのは言い過ぎた感もあるけど、訂正はしない。
そんな彼が、何故僕に声を。さっきの「あいつ」が彼女を指すのは解ったが、それと僕と、何の関係があるんだろう。
「庭園の掃除だってな。お疲れさん」
「そうね、大変だったわ。ありがと」
疲労を垣間見せる声音、しかし然程疲れているようには見えない。
「こいつだろ、最近つるんでるってのは」
先程僕に訊いた同じ事を彼は彼女に尋ねる。雰囲気が丸くなっているのに、そこで気付いた。やはり慣れた人間だと物を訊くにも容易いだろう。邪魔をしてはいけない。
「じゃあ、また」
明日、と続けようとして止めたから、音にした言葉は存外不揃いだった。普段は彼女に対してまた明日と言うのは割と楽な、些細な日常の日課と化していたが、抑々他人に「また明日」と言うも言われるも好きではなかった本心が、此処にきて剥き出したのだと僕は推理した。些末な問題。
そうして内向きに一生懸命働いていた心が、彼等の誘い掛けに反応を遅らせたのは必然と言っても可笑しくはないよと、僕は僕を慰めた。
「一緒に帰りましょうよ。ねぇ?」
彼女が賛同を求めれば、彼は無言で頷いた。それがやる気なく感じられ――“どっちでも良いんじゃないの”彼に対して少しやさぐれた態度が牙を見せた。僕は彼を、彼女に天才と遠巻きにではなく親しそうに接する彼を、どう思ったのか。探っても何も落ちてはこない。
黙ったまま答えあぐねる僕。彼女と帰る事自体、稀な出来事。すっかり一人で帰る心づもりが、かたかたと崩れかける。砂上の楼閣。
「久しぶり、なんでしょ。良いよ、僕は。二人で帰りなよ」
どうにか紡げた断り文句は、その体を成すと言うには程遠く、か細く不自然に響いた。内面の臆病や情けなさが漏れたみたいで嫌になったけど、弁明の気はなく。
誰の目も見ずに「ばいばい」と言ってしまうと、足は本能のままにその場を離れた。
彼女の内側に入る術を、きっと彼は識っているだろう。僕が識らなくても良いその鍵を、彼だけが持っているだろう。
どこからともなく不思議と沸いた感情は、嫉妬でも羨望でもなく、もっと灰色の、名状しがたい形だった。
馬鹿と天才の中点
(彼と彼女とその間)