episode.fainal

 仁王からの問いかけに、私は答えることが出来なかった。
自分の名前を言えば良いだけなのに、まるで声を出す事を忘れてしまったかのように、私の唇は動くことが無かった。
刹那、脳裏に夏祭りに聞いたお囃子と電車が線路を走る時の鈍い金属音が響き渡った。

「よせ、仁王。無理に思い出させることは無いんだ」

柳の声がする。皆、私の何を知っているの。私はなまえ。
ここにいる立海大の元テニス部レギュラーと同級生で、ここには幸村くんの七回忌だから集まった。でも、幸村くんはいつ亡くなったの?
思い出せない。私はみょうじなまえ。そうして頭の中で何度も自分の名前を反芻する。繰り返し繰り返し自分の名前を呪文のように唱える。

「やめて、私の記憶をかき乱さないで!」

 耳を塞ぎ、全ての音から自らを遮断する。自分の鼓動だけが体の中を駆け巡っていく。脳が留めているものだけが記憶ではない。己の体を構成する細胞の一つ一つにも記憶は蓄積されている。ただ、思い出すという行為が出来ないだけだ。

「落ち着け、お前は混乱しているだけだ」

 柳が耳を塞いでいる私の手に強く掌を重ねる。

「違う、混乱なんてしてない。私はちゃんと…」

 私の声を遮って、仁王が続ける。

「ちゃんと、覚えてる、と言いたいんじゃろ。けど、お前さんは思い出せるんか? 夏祭りから後の事、幸村が亡くなった時の事。幸村に関わる記憶を」
「覚えてるよ!! 夏祭りの日に幸村くんは私を変な男から庇ってくれた。その後からまた病気がちになって、無菌室に入るからもうお花が見られないんだってガッカリしてた。亡くなった時だって……」
「幸村、もう良いんだ…」

 唐突に、真田が口を開いた。

「何…、言ってるの?」
「時間が来たんだ、もう、みょうじには俺たちがいなくても大丈夫なんだ」

 音がする。記憶が呼び覚まされる音が全身に響き渡る。

******

 電車が通りすぎて、自分が無事だとわかったのは、自分とは違う体温を感じた時だった。「生きてる?」という問いかけで、この体温は幸村くんのものだと理解した。目を開くと、幸村くんに抱きしめられている腕の隙間からでも分かるくらい、肉片が散乱していた。叫んだものの、とても冷静に、私はそこを見ていた。無残に広がった場面を、まるで生理の時に排出される経血程度にしか感じられなかった。処理されてしまえば誰もそこにあったことを忘れてしまう。

 あの事故があってすぐに警察が呼ばれて、上辺だけの事情聴取をされてから私達は開放された。お祭りと言うこともあってか、待機していた警察の人はすぐに来て、現場検証やら聞き取り捜査やら刑事ドラマさながらだった。小さいながらも新聞沙汰になったけど、亡くなった人の身元が分かることは無かった。
こんな事は無いんですけどね、とその後の経過を知らせに来た警察の人も不思議がっていたけど、私にはもう、どこか遠くの出来事に思えていた。

 事件が一段落した頃から、幸村くんはまた病気がちになって、今度は無菌室に入るから、赤也はずっと来られないね、なんて軽口を叩いてた。
無菌室に移動になる前の最後のお見舞いに、またユリの花を持って行ったら、幸村くんは複雑そうな顔をしてたっけ。
そうだ、その日は病院の中で夏祭りがあって、レギュラーとゆっくり出来る最後の日だからって、外泊許可が降りたんだ。

それから・・・。それから・・・。

******

 次々と生まれては消えていく泡のように、記憶の波が襲いかかってくる。

『いいよ、幸村くんは私を助けてくれたんだもの。幸村くんがいたいだけここにいたら良いよ』

そうか、俺はずっとなまえの中に居たのか。

「真田と…蓮二もか…、いつから知ってたの」

 なまえの声で発する言葉は慣れていないせいか、違和感を覚えた。
真田と蓮二は妙に落ち着いた顔でこちらを覗いて言葉を紡いだ。

「最初から…、だろうな」
「あぁ、にわかには信じがたかったが、幸村が亡くなった後からみょうじの様子がおかしかったのでな」
「え、何? 幸村くんがどうしたの」

 蓮二と真田以外の疑問を背負ったように、丸井が割って入って来た。
こういうトコ、丸井は変わらないんだなと妙な懐かしさを覚える。

「仁王はどこまで知っているんだ」
「おおよそ、じゃが真相までは至っとらんよ」
「みょうじ、いや精市。もう潮時だろう。警察が来るまでの間に俺から事の真相を話そう」
「あぁ、頼むよ蓮二」

******

 蓮二の話は付け加えるところが無い程この事象を正確に捉えていた。
病院のお祭りのあったあの日、外泊許可をいい事に、俺はなまえを連れて神社に行った。普段は信心深い方じゃないのに、多分、なまえの怖がる姿でも見て、病院にいるつまらない日々の腹いせにでもしようと思ったんだろう。けど、俺の考えとは裏腹になまえは怖がる素振りもなく、ただ淡々と神社の階段を登っていった。賽銭箱にしるし程度のお金を放り込むと、賽銭が落ちる無機質な音が響いた。ふと隣を見ると、なまえの肩が小刻みに震えているのに気付く。顔が見えないように下を向いていたけど、これではまるで顔を覗き込んで欲しいと言わんばかりに思えた。

「幸村くんは死なないよね」
「死なないために入院してるんだよ。不謹慎だななまえは」

なまえの瞳には涙が浮かんでいるのが見えた。こんな時に涙を見せるなんて、俺のそばに居る女の子としては不似合いだ、と苛立ちを覚えてぶっきらぼうに返してやった。俺はまだ死ねない。涙を流すなまえの顔を見なくても良いように、傍に引き寄せて俺の胸に顔を埋めさせる。Tシャツにほんの少しの湿り気が感じられた。そして唇を重ねた。

「無菌室に入ると、こういうことも出来ないから、し納め」
「うん」

 俺はなまえが好きだったわけじゃない。ただなんとなく、これで他人との接触がしばらく出来ないと突きつけられた時に起きた、生理的な衝動だったのだと思う。

「目を白黒させたりしてないってことは、俺が初めてじゃなかったんだ」
「そう、だね…。他にもしたことあるから…」
「へー、なまえは案外貞操観念ゆるいんだね」
「ち、違います!!」

 ははは、と軽く笑い飛ばしてから、この神社に伝わる古い言い伝えを思い出した。

「なまえは、ここに伝わる話を知ってる?」
「うん…、ここに一緒に来て社殿にある狐のお面を見た人は、死ぬ直前に一緒に居た人の前に現れる事ができる、って話でしょ。でも、現れたとしても私、おばあちゃんになってるだろうから、幸村くんに見られるの恥ずかしいな」
「俺もおじいさんだから、なまえはきっと分からないよ」
「じゃあ、それまでのお楽しみだね」

 そして、無菌室での入院が始まった頃から、奇妙な夢を見るようになった。狐の面を付けた人物が度々現れて、なまえの前に連れて行っては消える。何度も何度も繰り返し見る夢に、俺は次第に眠れなくなっていった。けれど昼の明るい時に眠ると、不思議とその夢は見なかった。時折見舞いに来る蓮二と真田に、妙な夢を見るから他のレギュラーには見舞いを控えて欲しい旨を伝えてもらい、徐々にその夢が落ち着いてきた頃、俺は息を引き取った。原因不明となっているが、不眠による衰弱死だったのだと思う。自分では寝ているような気がしていただけで、徐々に体力が吸い取られていったようだ。死ぬ間際、狐の面が現れて、なまえの夢の中へと連れて行ってくれた。そのまま死ぬつもりだったのに、俺の思念の強さが災いして、なまえの中に俺の思念が宿ってしまったのだ。なまえは快く俺をその体内に受け入れてくれた。もちろん、現実に俺が出て来ることは無かったし、なまえと会話する事もなかったけれど、真田達の声がすると、時折、あのテニス部で汗を流していた時のことを思い出して妙なことを口走ってしまったりした。その時、蓮二と真田は気付いたようだった。
なまえが大人になるにつれて、俺自身もなまえの記憶の中埋もれて、自分が他人の体に居ることも忘れていった。けれどなまえが見た狐の面をした人物の写真を見た時、俺の残留思念が強く写ってしまっている事に気付かされた。狐の面の人物、それは俺の残留思念だ。

******

「ちょっと待てよ、じゃあなまえの中には幸村くんがいるってのかよ?」
「そうだ、そして、フードの男は、恐らく精市の成れの果てだ」
「酷いな蓮二。彼は俺の残留思念が飛び火しただけだよ。偶然近くにいた人の体に俺の記憶が少し入っただけ。丸井を襲ったのは、キッカケでも無いとここから離れられないからね」
「うぇー、俺殴られ損かよ」
「いつも損な役どころをジャッカルに押し付けてるからだよ」

 いつになっても聞こえない警察のサイレンを、俺は待つのを止めた。恐らくこの事を予想して、蓮二は通報していないのだろう。

「もうすぐきっと、赤也が来ると思うよ。赤也はこういう事には免疫が無いだろうから、その前に俺はここともお別れするよ。離れるのに、自分のお墓近くに連れて来てもらう必要があったから、皆には苦労をかけた」

 幸村、と口々に俺の名を呼ぶ声が聴こえる。けれどそれはどんどんと遠くなっていった。俺がなまえの中にいた事も、忘れてしまうように、記憶を持って行くよ。

『ありがとうなまえ』

******

 そうして、私の中にあった幸村くんの思いは消えていった。ただ立っていただけなのに、涙がとめどなく溢れてきた。消えてしまった記憶が何なのか、今はもう分からないし、手に持っていた写真に写っていたはずの何かも、思い出すことが出来ない。

「あ!! 見つけたッスよ」

 神妙な雰囲気を打ち破るように、赤也の声が響き渡った。

「赤也、お前は場所を選んだ行動ができんのか」

 来てそうそうに、赤也は真田からの鉄拳を喰らっていた。そんな姿は、本当に昔のままで、心底ホッとした。

「これでも急いで来たんスよ。あ、なまえさんも来てたんスね」
「切原くん、幸村くんの墓前です。これでは幸村くんが安心できないじゃありませんか」
「幸村部長は、俺のことちゃんと見守ってくれてますよ」

 赤也の発言に、元レギュラー陣が顔を見合わせていた。多分、過去の彼を想像していた彼らにとって、今の発言は似つかわしくなかったのだと思う。そして、似合わない神妙な顔つきで、赤也は長々と幸村くんの墓前に手を合わせていた。

「幸村部長、俺、今度なまえさんと結婚する事になりました。これからは、俺がなまえさんの事を守っていくんで、安心して向こうで見守ってて下さい」

 そう、私は赤也と結婚する。そんな事になるなんて、自分でも想像もしてなかったけど、熱心に懇願する姿に、なかば私が折れる形でこの結婚は決まった。お盆に帰省する形で両親への挨拶も済んで、本当は落ち着いた頃にレギュラー陣に報告したかったのに、先走ってしまうところは、やはり赤也らしい気がした。

「なんじゃ、おまんら結婚するんか」
「へへへ、そうなんすよ。俺の魅力でなまえさんを虜にしたッス!!」
「ちょっ、違うでしょ!! 赤也が押せ押せだっただけでしょ」
「ふむ、なまえは赤也のような男がタイプだったわけか」
「柳まで。何なのもー」

 次々に茶化してくるメンバーからの冷やかしに早く終止符を打って欲しくて、私は早々に幸村くんの墓前を後にした。

by みつき

END

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