あれは一月ほど前のことだった。
執務を終え、鍛練場にでも向かおうかと宮の回廊を歩いていたとき、角から一羽の小さな鳥が飛んできた。反射的に出した私の右手に止まった小鳥はどうやら人懐っこい性格だったらしい。
何故このような所に、と不思議に思いながら見ていると、小鳥が飛んできた角から微かな衣擦れの音が聞こえた。
目を上げたと同時に現れた姿が視界に映り、――その途端、私の目は引き寄せられたかのように離せなくなった。
「…あ、」
綺麗な声だと、そう思った。
私と小鳥を交互に見やって、どこか困ったような表情を浮かべた彼女に、私はやっと金縛りが解けて口を開いた。
「あ、し、失礼しました。この小鳥はあなたの…?」
「はい。突然飛んでいってしまって…ありがとうございます」
「い、いえ、そんな」
目元を緩ませて微笑んだ彼女に、ぎこちなく右手を差し伸べる。小鳥はすぐに、伸ばされた彼女の手に移った。
白くて綺麗な、小さな手だ。
節くれだった肉刺だらけの自分の手を下ろし、小鳥を乗せた彼女の手を見つめる。私でも分かる。この手は、戦など知らない手だ。
「実は今朝、私の室に迷い込んでいたのです」
「そうなのですか」
「はい。人懐いでしょう?こんなにも近くで鳥を見たのは初めてで、はしゃいでしまいました」
そう言って恥ずかしそうに眉を下げて笑う彼女に、私は上手く開かない口で曖昧な返事を返すしかできなかった。眩しいくらいなのに、何故か目を離せないでいる。
すると彼女は、はっ、となり軽く居住まいを正して私を見た。
「申し遅れました。私、曹孟徳が娘の唯緋と申します。突然の失礼をお許しくださいませ」
「あ……はっ!?」
名乗られた彼女の名に一瞬思考が停止し、一息に背中を冷たい何かが走った。
なんと、まさか、まさか!
「ぶ、無礼をお許し下さい!姫君様とは知らず、」
慌てて拱手をして片膝をつく。知らなかったとはいえ、このような距離で軽々しく言葉を交わしてしまったとは。緊張で心臓がうるさい。
頭を下げたままでいると、頭上で唯緋様も慌てたような気配を感じた。
「そ、そのようなことをなさらないでください。小鳥を捕まえてくれた恩人なのですから」
「し、しかし、」
「頭をお上げになってくださいませ。お名前をお伺いしても?」
「は、はっ…」
ゆっくりと手を解き顔を上げると、ほっとしたように笑う唯緋様の姿が目に映り、さっきよりは落ち着いたはずの心拍がさらに速くなる。
「…楽文謙、と申します。楽進、とお呼び下さい」
「楽進ね。覚えましたよ」
「は、はい」
「ね、楽進」
甘い響きを伴って聞こえる自分の名に狼狽えつつ、呼んだ唯緋様を見つめる。唯緋様は悪戯っぽく笑い、その綺麗な人差し指を口の前で立てて見せた。
「この小鳥と今日のことは、私と楽進の二人だけの秘密ですよ。父上にも兄上にも、秘密です」
――恋とはどんなものだろう。
私にとってそれは、唯緋様の笑顔であったらしい。
今日、楽進が来てくれた。
人目を盗むように後宮の近くまでやって来て、一輪の小さな花をくれた。
父上や兄上、甄姉様が今までにくださったどの花よりも小さくて、でも可憐で。
名を聞くと、楽進は、名もなき花だと言った。
ならば、この花には私が名をつけるわ。それはなんて素敵なことでしょう。
そう言えば、楽進は笑って頷いてくれた。
ねぇ、私の初恋はきっと、あなたなのね。
天使の恋
リクエスト内容[楽進/お姫様主人公/楽進が一目惚れ]
お姫様と家臣の身分差恋愛っていいですよね。私も大好物です!(笑)なんだかとってもふわふわした甘いお話になりましたが、未妃様のお気に召して頂けたら嬉しいです(*´∇`*)大変お待たせ致しました…!;今回はリクエストありがとうございました^^