あぁ、最近こんなことばかりだ。
曲がり角の陰でどうすることもできず壁に背を預け、溜め息を吐く。噂話やあまつさえ悪口ならせめてこんな回廊の途中でしないでもらいたいものだ。
――楽進殿が婚儀を断ったらしい。しかも相手は自分より良家の豪族というぞ。
何とも身の程知らずな話ですな。しがない文官上がりが偉そうに。
「…」
それにしても腹立たしい。良い年をした大の男が言うことではないだろう。運ぶ途中だった書物を握る手に力がこもる。
あなた達が楽進の何を知っているというのか。
今すぐこの曲がり角から飛び出してその言を撤回しろと言いたい。しかし必死にその気持ちを抑える。というか、早くそこをどいてくれないと私は目的地にすら行くことができないのだ。
――曹操様にどのように取り入ったかは知らんが、大方下品な手段でも用いたのだろうて。
これだから出が低い者は。
――私の頭の中で、何かが焼き切れる音を聞いた気がする。
***
「痛た…」
左頬に恐る恐る手をやると、鈍い痛みと共に口の中に鉄の味を感じた。どうやら口内も切れているらしい。腫れ始めるのも時間の問題だろう。
まさか手を出してくるとは思わなかった。そのくらいの分別はあると思い込んでいた私が浅はかだったらしい。
楽進の悪口を叩き合う官僚殿の前におもむろに姿を現し声を掛けたとき、自分でも驚くほど頭は冴えて冷静だった。口で負ける気はしなかった。彼らの言うことは正しくはないのだから。
だが、言葉に詰まった向こうがまさか殴り付けてくるとは思いもしなかった。
「…跡にならないといいけど」
痛む頬はとりあえずそのままに、足早に書庫へと向かう。大幅に遅れてしまったが当初の目的をまずは終えなくては。
辿り着いた書庫の扉を勢いよく開けると、中にいた人影が驚いたように動くのが見えた。先客がいたらしい。
慌てて、申し訳ございません、と言いかけ、そこにいた姿に――思わず目眩がした。
「――唯緋殿?」
今、できれば一番会いたくなかった。
思わず立ち尽くす私を不審に思ったのか、楽進が訝しげな表情を浮かべながら近付いてくる。そして、みるみるうちに目を見開いた。
「唯緋殿!?頬が腫れて、…如何された!?」
慌てたように私のすぐ前に来て顔を覗き込む楽進に、何とか笑ってみせる。しかしどうやら上手くいかなかったらしい。楽進の顔は目に見えて険しくなった。
「…ここでお待ち下さい。絶対に動かないで下さいね」
早口にそう言い置いて書庫を出ていった楽進の後ろ姿を、閉まる扉に遮られるまでぼんやりと見つめた。とことん今日はついてない。
しばらくして書庫に戻ってきた楽進は、湿らせた布を持っていて、それを私に差し出した。
冷やせ、ということなんだろう。受け取って左頬に当てると、一瞬しみたが徐々にその冷たさを心地よく感じた。
「…一体何があったのですか」
気遣わしげに、しかし目を厳しく細めて楽進が私にそう問いかける。有無を言わさない空気を嫌でも感じる。
「何でもないよ、私がちょっと手違えただけだから」
「…」
「本当に、こんな怪我大したこと、」
「――大したことない、などと言わないで下さい」
私の言葉を遮るように聞こえた楽進のどこか苦しそうな声に、息が詰まる。
私を見つめる楽進の顔があまりにも苦しそうで、そしてあまりにも優しくて、思わず泣きそうになった。
布を押さえていた私の左手に、楽進の傷だらけのゴツゴツとした手が壊れ物でも扱うかのようにそっと触れるのを、息継ぎもできずにただ見つめる。
「大切な人が怪我を負っているなんて、笑えないんです」
貴女をお慕いしています、と、楽進が微かな声で呟く。
私の両の目から、堪えきれなくなった涙が堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
「ごめ、楽進、止まらな、あのね、」
「気にしないで下さい。何ですか?」
「あのね、私、私も楽進のこと、――」
嗚咽で上手く出せない言葉の途中で、楽進に優しく抱き寄せられ完全に声が出なくなる。はい、だとか、ありがとうございます、だとか言いながら私の背中をあやすようにゆっくりとさする楽進の手に、必死に頷いて応えた。
「自分に嘘をついていた私は、馬鹿だったようです」
私も同じこと思ってるよ、と言いたかったが勿論声にはならなかった。私達は似た者同士なのかもしれない。それすら今は嬉しいなんて、愛は偉大だ。