あれ、楽進――。

竹簡の束を抱えた道すがら、廊下の先に見慣れた後ろ姿を見つけた。そういえば、彼と会うのはしばらくぶりだ。この間までは毎日のように顔を合わせ仕事をしていたのが懐かしい。
同僚だった楽進が武官として抜擢され、めざましい活躍をしたという情報は記憶に新しい。彼は戦いの才覚もあったのかと私は驚くばかりだ。
今でも会えば立ち話くらいはするけど、何だか遠くに行ってしまったようで寂しい。まぁ、そんな風に思ってしまうのは私の個人的な感情のせいなのだが。



――いえ、そんな。私になど、分不相応でしょう
そんなことはない。楽進殿を見込んで是非に、との話ですぞ。悪い話ではないでしょう。豪族の娘御ですし。
恐縮ですが、私のような若輩者には婚儀などまだ。

漏れ聞こえた声に、廊下を進む私の足が、ぴたり、と止まる。必死に表情は微動だにさせまいと堪える。聞き間違いでなければ、今確かに――。
近付いてきていた私に気付いたらしく、楽進と話していた人(恐らく文官の方だ)は話を切り上げ、そそくさとその場を立ち去った。ふと振り返った楽進が、私の姿を視界に捉えるなり笑顔でこちらに向かって歩いてくる。

「唯緋殿!奇遇ですね」
「…そう、だね」

本当に奇遇過ぎる。よもやあんな話を聞いてしまうはめになるとは。

「この間体調を崩しておられましたよね。回復したようで何よりです」
「楽進こそ大活躍らしいね。噂、聞いてる」
「そんな、私などまだまだで…。目をかけて下さる方あればこそです」
「…えっと、それで、婚儀も勧められてる、の?」

窺うように言った私の言葉に楽進は一瞬、きょとん、とし、顔を赤くして困ったように眉を下げた。

「…聞いていたのですか」
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりは無かったんだけど、」
「いえ、別に構いません。お断りさせて頂いた話ですから」
「そっ、か」

何とも居心地の悪い空気が私たちを包む。やっぱりいろいろと機会が悪かったのかもしれない。今更言っても仕方ないのだが。
ただただ目を泳がせていた私は、あの、という楽進の声に急いで顔を上げた。見上げた先の真剣な楽進の瞳に捕まり、思わず瞬きもできず固まる。

「…唯緋殿は、慕われる御仁などおられるのでしょうか」

楽進の言葉を理解するのにかなりの時間を要した。

「…いないよ」
「……そうですか」

絞り出すようなか細い声音で言った私に、楽進は何だかぎこちなく笑い、失礼しました、と言い置いて踵を返し行ってしまった。
根が生えたように立ち尽くすしかできない私は、無性に泣きたい気持ちが溢れて仕方なかった。

本当のことなど、言えるはずがない。ましてや、あなたを慕っているなんて。



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