その話は、あまりにも突然だった。

「…馬超殿、今何と」
「ん?だから、趙雲が室を迎えるらしい。奴もやっと身を固める気になったようだな」
「…」
「相手は有力豪族の娘らしい。見目の評判も悪くないと聞くし、これ以上の話もないだろう」

鍛練後の火照った体がみるみる冷めていくのを感じる。頬を撫でるようにつたう汗が異様に冷たい。
隣にいる星彩も初耳だったんだろう。心底驚いた顔で馬超殿を見つめている。
馬超殿は動きを止めた私に気づいていないようで尚も口を動かしている。なのに、言葉は何一つ私の耳に入ってはこなかった。



「…唯緋、今日はもう室で休んだ方がいい。この後、特に用事もないんでしょう?」
「…星彩」

連れられるようにやって来た鍛練場に程近い星彩の執務室で、椅子に座らされた私の側に膝をつく星彩に苦笑いを浮かべる。
星彩は眉間に皺を寄せ、酷く優しい手つきで私の前髪を軽く横に払った。

「酷い顔をしてる」
「…そんなに?」
「えぇ」

逃げるように星彩から目をそらし、膝の上に乗る自分の手の甲を見つめる。頭の中はまるで暴風に曝されているかのようだった。いろんな言葉や感情が、洪水をおこしたようにせめぎ合う。
その一番奥底で私の心は、――趙雲殿の隣を取られたくないと、必死に叫んでいた。
一体、これは何なんだ。これじゃあまるで、

「…ねぇ星彩」
「何?」
「私は、趙雲殿のことが好きなの?」

星彩は一瞬目を見開いて、すぐに穏やかに細めた。

「気付いていると思ってた」
「…分かんないよ、よく」

頭の中を延々と廻る思考が更に自分を落ち込ませるのが分かる。
趙雲殿へのこの気持ちは、尊敬や憧れだと思っていた。しかし、私は所詮ただの女でしかなかったというのだろうか。
だとしたら、それが何より辛い。

「…こんな私、趙雲殿にだけは知られたくない」
「…何故?」
「趙雲殿にだけは失望されたくないんだ」

俯く私の横で星彩はゆっくりと立ち上がり、今日はもう休んで、ともう一度言った。
それ以上何も言わないのは、きっと彼女の優しさだろう。





*****





それから、私の足は趙雲殿から遠退くようになった。
その間にも趙雲殿の婚約の話はたくさんの人の口から語られ、いよいよもって周知の事実となった。
とある日に宮の回廊で、笑顔の馬超殿に背中を叩かれ照れたように笑う趙雲殿を見かけたりもした。

「あなたは逃げているだけ」

星彩は私にただ一言そう言った。そうだ。私は逃げている。自分からも、趙雲殿からも。
だったらどうすればいいというのだろう?

しかしやはり逃げ続けられる訳もなく、程無くしてついに私は趙雲殿に捕まってしまった。



「唯緋」
「…」
「聞こえてるんだろう」

書庫へ向かう途中の人通りの少ない回廊に趙雲殿のよく通る声が響く。狙ったかのように、そこには私と趙雲殿しか居なくて。
逃げられない、と悟った私は必死に平静を顔に貼り付けて振り返った。

「…何か御用でしょうか」
「用…そうだな」

迷いない足取りでこちらへ歩いてくる趙雲殿の足音を息を殺して聞く。落とした視線の先に、趙雲殿の爪先が止まった。

「最近顔色が悪い。どこか悪い所等はないか?」

優しい声音に反射的に上げてしまった視界に、私を慈しむような目で見つめる趙雲殿が映る。

心臓が、何かに縛られるように、きゅう、と細くなった気がした。

「…いえ、何も」
「そうか、……だが、今も顔色が優れないな」
「…そうですか?」
「あぁ。心配で仕方ない」



――心配、



「…それは、私を妹のように思っているから、ですか」



趙雲殿が虚を衝かれたような表情を浮かべていることに気付き、口からするりとこぼれた言葉に、はっ、となる。
こんな子供じみた我が儘、何故私の口から出てきたのだろう。分からない。情けない。恥ずかしい。
勝手に混乱する私をよそに、すぐにいつもの冷静な気配に戻った趙雲殿は何の躊躇も迷いも見せずに口を開いた。



「勿論だ。唯緋のことは妹のように、大切に思っている」



趙雲殿の言葉に、全ての思考が止まった。



苦しい、と、心の中の自分が叫んでいる。

全ての霧が晴れるように、私はようやく気付いた。

この気持ちは恋だ。



「…どうした、唯緋、大丈夫か?」

心配そうに私の顔を覗き込む趙雲殿の目に、息が詰まる。
なんて苦しいんだろう。





荊州への援軍に加わるように、との命が私に下ったのは、その翌日のことだった。




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