December,XX,
え、何。
上司から渡された資料ファイルを片手に、思わず足を止めて立ち尽くす。見慣れた社内の人通りも少ない廊下、曲がり角を曲がった途端に視界に飛び込んできた黒い人影に声が漏れてしまった。
ふと、声に気付いたように目の前の人が上げた目線が私のものとぴたりと合う。剣呑だった目付きがさらに鋭くなり、目を眇めて見据えられた。冷や汗。
「…あの、えっと、法正さん?」
「……あぁ、唯緋殿ですか」
私を認識したらしいその人は、まるで興味無さげにまた視線を下に落とした。そしてさっき私が思わず固まってしまった目付きで廊下の床を睨み付ける。
スーツ姿にそんな物騒丸出しの表情で腰を落とししゃがみこんでいる目の前の法正さんは正直堅気の人には見えない。勿論本人にそんなことは言えないし、ましてや法正さんはれっきとした上司だ。部署は違うけど。
「お気になさらず。どうぞ行ってください」
「あ、はぁ…」
眉間に皺を寄せて食い入るように目を走らせる法正さんが、至極面倒そうにそう言う。露骨な追い払われている感に口元が引き攣った。触らぬ神に祟りなし、とはこういうことだろう。
と、目線を足元に落として一歩踏み出そうとしたとき、私の靴の爪先近くで何かが光った。
あ、これ、もしかして。
目の前の法正さんと同じようにしゃがみこみ、手を伸ばして拾い上げたそれを手のひらに載せて確認する。そして法正さんに向かって恐る恐る手を伸ばしてみた。
「…法正さん、これをお探しですか?」
気怠げに目を上げた法正さんが、私の手のひらを一瞬睨み付けるように見て、小さく目を見開く。
「……あぁ」
「あ、良かった」
ほう、と息をついて胸を撫で下ろす。うっかり踏まなくて本当に良かった。
「法正さん、コンタクトだったんですね」
「…まぁ、そうですよ」
廊下の明かりに反射して僅かに光るコンタクトをやけにゆっくりとした仕草で受け取る法正さんにそう言うと、何故か渋い表情を浮かべた。
どうりでいつもより目付きが悪かったわけだ。睨み付けるように廊下を見ていたのも納得できる。
「眼鏡は掛けられないんですか?」
ちょっとくだらない質問すぎただろうか。いつも恐いなぁと遠巻きに見ているだけだった法正さんに急に沸いた親近感からそう口にしてみると、案外あっさり口を開いてくれた。
「自分の弱みをわざわざ周囲に示す必要はないと思いますが」
「弱み…ですか」
視力が低いのは弱みなんだろうか。確かに不便ではあるかもしれないけど、ハンデというほどではないような。
そう思ったが、すぐに胸の中で打ち消す。法正さんはそのことを何だかとても気にしているように感じられたからだ。
見た目からただ恐いと思っていたが、実は人間味のある人なのかもしれない。
「じゃあ、今日見たことは忘れます」
「…は?」
「これからは気をつけて下さいね、落とさないように」
ちょっと笑って言うと、法正さんは呆気に取られたような顔をした。それから複雑そうな表情を浮かべて髪を緩くかき混ぜ、溜め息を吐く。
「…あなたは変な人ですね」
「え、何でですか」
心外だ。少しむくれた私に、法正さんはゆっくりと立ち上がって私が手に持ったままのファイルを顎で指す。いいんですかそれ、と言われた言葉に、はっ、となって慌てて立ち上がる。
「ありがとうございますっ」
「…礼を言うのは俺の方ですがね」
やけに真っ直ぐ私を見て、恩に着る、と言った法正さんに笑いを返してすぐさま踵を返す。
勿論そのときの私は、その法正さんの言葉の裏に込められた意味なんて気付くはずがなかった。