目を開けると、知らない天井が見えた。一度瞬きをすると、弛んでいた視界がはっきりしたものになる。
そこで気付く。よく見れば天井の壁紙は見覚えのあるものだ。だが、形の見え方が違う。もう一度ゆっくりと瞬きをした。
…そうか、私の部屋じゃない。
そこまで考え、がばっと体を起こす。見渡すとそこは誰かの部屋らしく、見たことのない景色が広がっていた。自分がさっきまで寝転んでいたベッドも、この部屋の持ち主のものだろう。
「痛っ…?」
少し冷たいシーツを握り締めたとき、不意に痛みが走った。何気なく手首を持ち上げて、思わず目を見開く。
「…え、何これ、…傷?」
手首には何故か丁寧に包帯が巻かれていて、それを外すとその下には見たこともない傷跡があった。紫色の内出血と、何かが刺さったかのような真新しい傷が5つ。
何これ、一体どういうこと?
背中を嫌な汗が伝った瞬間、部屋の扉が音もなく開いた。
「…!?」
弾けるように顔を上げて身を強張らせた私に、扉を開けた影がリビングの灯りに照らし出される。人影だ。
そしてその影が一瞬固まり、次の瞬間、その場で膝をついて頭を思いきり深く下げた。
「申し訳ありません!」
「……へ、」
呆気に取られた私に、頭を軽く上げて窺うような目線を寄越した彼の顔が映った。
あ、と気付く。綺麗に整えられたオールバック。神経質そうに寄せられた眉間は、どうやら体調が悪いからだけではなかったらしい。
「あ、さっきの…」
「先程は大変失礼をしました」
申し訳ありません、ともう一度続けた彼は、同じ階に住む諸葛誕と名乗った。そして今私がいるのは彼の部屋だという。あー、同じ階の人だったんだ、と彼を見つめてぼんやり思う。
――その途端、気を失う前に見た光景が瞼の裏にフラッシュバックした。
「…あなたは、一体、なに?」
シーツを握り締め、乾いた声を絞り出す。
彼はどこか寂しそうに微笑んだ。
「何だと思いますか?」
異様な静寂の中、彼の静かな声が響いた。ドクンと心臓が音を立てる。
目の前の彼に、廊下で見た姿が重なっていく。爛々と光る目、大きく鋭い牙。
「……狼?」
「…半分正解です」
どういうこと?
疑問はすぐに晴れた。手に嵌めていた白い手袋をゆっくりと外し、僅かに口角を上げた彼に、今度こそ私は目を見開いて息を詰めた。
「私は狼男なのです」
鋭く尖った爪を僅かに揺らし、獰猛な牙に舌を走らせた彼は、まさしく獣だった。
「…普段は普通の人間と何ら変わりはありません。満月の日に変身を抑制する薬を飲んでおけば、爪や牙が出てきても理性を失うことはない。決まった時間に飲みさえすれば」
諸葛誕さんが静かに語る話を、私は信じられないような心地でただ聞いていた。
どうやら、薬を飲むのが遅れてしまい変身症状が現れかけていたときに私は遭遇してしまったらしい。何だその技術の進歩…と言っていいのだろうか。
しかし、人のものとは思えないその爪は確かに諸葛誕さんの指先にあるのだ。
「私のこの爪が、唯緋殿のお身体に傷を付けてしまったのは紛れもない事実です」
私の視線に気付いたのか、爪を隠すようにぐっと拳を握って諸葛誕さんは苦しそうにそう言った。そうか、この傷は廊下で彼に手首を押さえ付けられたときの。
反射的に手首に手をやった私に、諸葛誕さんはまた勢い良く頭を下げた。
「あなたを傷付けてしまった責任は私が取ります!」
え、は?
責任を取るって何だ?
この諸葛公休の一生をもって!とか続ける諸葛誕さんの台詞は、ぽかん、と口を開けた私の耳を素通りしていく。
完全に許容範囲を越えてしまった疲れ果てた私の脳は、諸葛誕さんはステーキならレアが好きなんだろうか。半分くらい狼だし。と、くだらないことを考えるばかりだった。