夜、王異の厚意に甘えてお邪魔させてもらったマンションの一室で当然のように一升瓶を空ける彼女に程々に付き合っていると、突然ケータイが震えた。日付の変わる少し前。今日は午前様にはならずに済んだらしい。
かつてないほどに鳴り止まないケータイを尻目に酎ハイの缶を呷っていると、物言いたげに私を見る王異と目が合った。
「…出ないの?」
「うん」
短く返した私に、王異はそれ以上何も言わず口を噤む。何でもない話題を振ると何事もなく乗ってくれることに感謝しつつ、鳴り続けるケータイとディスプレイに映し出された名前を無視し続けた。
ようやく私のケータイが沈黙したのは、それからしばらく経ってからのことだった。
*
次の日の朝、オフィスに入ると私のデスクの上に置かれた一枚のメモが目に止まった。いやに見覚えのある薄水色のその紙は、惇がよく残していた書き置きの紙と同じものじゃないだろうか。
あぁ、と思わず出そうになった溜め息を飲み込み、メモを手に取る。そして今度こそ溜め息が出ていく。
『昼はオフィスにいろ』
署名すらないその文字たちが惇のものだと、すぐ分かってしまう自分に嫌気が差す。
「王異ー」
「何?」
「今日のお昼イタリアン行かない?バス通りの」
「構わないけど…」
小さく眉を下げる王異が二の句を告げる前に、薄水色のメモ用紙を、くしゃり、と握り締める。私が彼の言葉に従う道理なんてない。
――そういう私の考えはお見通しだったらしい。
「…王異、すまんが唯緋を借りる」
「ちょっと、勝手なこと、」
昼休憩に入った途端、待ち構えていたかのように惇が姿を現した。普通の昼の時間に仕事を抜けてこられるなんて珍しい、とか思いながらしげしげ眺めていると、腕を取られて王異に先程の台詞。
冗談じゃない、と抵抗する私に有無を言わせない力で体を引かれれば、為す術なく惇についていく他ないじゃないか。
「…で、何か用?」
連れてこられた人のいない会議室で、王異を待たせてしまっている焦りから不機嫌な顔を隠さずに言うと惇は眉間に思いきり皺を寄せて私を見据えた。
「どういうつもりだ」
「何が?」
「…何も言わずに何故居なくなった」
「合鍵にメモは貼っといたでしょ」
「何故連絡しても出ない」
「もう話すことなんか無いと思ったから」
「お前は――!、」
声を荒げかけた惇が、一息ついてブレーキをかけるのを黙って見ていた。そして少し逡巡した後、目許を歪めて言いにくそうに惇が口を開く。
「……家に帰ってきて、お前がお前のもの全てと共に忽然と消えているのを見た俺の気持ちが分かるか」
――瞬間、脳が沸騰したのが自分でも分かった。
「…だったら!!いつも惇が帰ってくるのを待って晩御飯作って朝御飯作って、それでも顔も見れない私の気持ちは!?はっきりした将来のことも見えないまま家政婦みたいなことしてる私の気持ちは!?分かるっていうの!?」
帰りが遅い惇を待つのは時間と共に慣れていった。しかし同時に、不安はゆっくり大きくなっていった。
ねぇ、私達この先どうなるの?惇はどう思ってるの?
不安が膨らむ度に、分からなくなった。私が私で無くなるような気がして、怖くて堪らなかった。
呆気にとられたような表情で固まる惇に一瞥をくれて、会議室を走り去る。
惇は追ってこなかった。それが悔しくて悲しい。そしてこの期に及んでそんなことを思う自分が嫌になった。