「…で、荷物を全て引き払って来たの?」
「うん」
「…何の連絡もせず?」
「合鍵には、返すね、ってメモ貼り付けといたけど」
王異が深い溜め息を吐いて首を左右に振るのを、淹れたてのコーヒーを吹いて冷ましながら見やる。困っているのと呆れているのの中間くらいの表情を浮かべて王異は目を上げた。
「唯緋たちは順調に付き合ってると思ってたわ」
「うん。順調だったよ」
それが当たり前になってしまうくらい。
そう続けると王異は目を丸くして、続きを促すようにデスクに頬杖をついた。仕事の合間、軽い休憩中に話すにしてはあまりよろしくない話題だっただろうか、と独りごちる。
惇との出会いは何の捻りもなく、会社の同期入社組だった。何人もいた同期の中でも惇はまぁ仕事のできる男で、一番の出世頭になるだろうと皆が言っていた。
そんな惇とたまたま研修で関わることも多く、一人暮らし先の最寄り駅が一緒だという偶然もあり、入社して一年が経つ頃に自然な流れで恋人関係になった。
そして付き合ってから三年、惇の家に私が転がり込む形で私たちは一緒に暮らすようになったのだ。
あの頃は、まさかこんな形で自分から二人の時間を終わらせようとするなんて思いもしなかった。
「…第一、同じ会社なんだから家を出ても意味無いんじゃないかしら」
「んー、まぁそれでもいいかなって」
「今晩はどうするつもり?」
「ネットカフェとか」
「…泊めるから私の家に来なさい」
ありがとう、と笑うと、こめかみの辺りを押さえて溜め息を吐かれた。なんだかんだと王異は面倒見がよくて優しい。
「じゃあ一旦この話は終わりね。仕事仕事」
飲み干したカップを脇に置いてデスクトップに向かう。端的に考えても勝手極まりない私の行動に王異は何も言わず、静かな相槌を打って自分のデスクに戻っていった。
ありがとう王異。あと、ごめん。
何故だか鼻の奥がつんとする。見て見ぬふりをして私はパソコン画面へと目を走らせた。
昼休憩のとき、惇が忙しなく動き回っているのを見かけた。黙ってその背中を見つめる私の脳が、惇との記憶を必死に掻き集めているということが不思議で仕方なかった。