床を踏みしめる足音と気配に振り向けば、中庭に降りた私を見下ろすように見つめる主君の姿があった。
すぐに片膝をついて頭を下げる。頭上に降る視線はやはりどこまでも真っ直ぐで、そこに揺らぐ気配はない。
「……出立は」
「はい。明日の朝にはここを立ちます」
私の返答に神妙な表情で頷いた景勝様は、おもむろに廊下から中庭に降りて敷石の上に立つ。視界に映った爪先から線を辿るように顔を上げると、眉間に皺を湛えて私を見下ろす瞳とぶつかった。
そのような顔をなさらないで下さい。私はこれ以上ない幸福者でございます。
私の想いは伝わったのだろうか。ほんの僅かに口元を引き結んだ景勝様を強い眼差しで見つめ返す。
幼い頃から私の主君は景勝様ただ一人で、彼の人の為に生きることは私の人生において最大の幸福であり当然の任だと思っていた。
女ながら武器を振るい戦場に立つ私を、景勝様や古参の仲間たちは皆一様に認め称えてくれた。私にとってそれは言外の喜びであり、生きる理由でもあったのだ。
そんな私を見かねたのか耐えられなくなったのか、父から縁談の話を持ち掛けられたのは二月ほど前のことになる。父の気持ちも痛いほどに分かる。そして、その縁談が上杉の地場をより強固なものにするということは誰の目にも明らかで、私には断る理由など無かった。
兼続は、女としての幸せを手にできるのだな、と言って自分のことのように喜んでくれた。私も笑って頷くことができた。
だから、私はこの選択を悔いても憂いてもいないのです。
全てを目の前の彼の人に伝えたいと思った。真っ直ぐに見つめ返す先で、景勝様が険しく目を細めたことに気付く。
突然に足を動かし腕を伸ばした景勝様は、居直る私のすぐ傍に咲いた花を無言でニ、三と引き抜いた。そしてそれを私の前にぐっ、と差し出す。
「…景勝様?」
「……」
武骨で大きな手に握られた花と、眉間に皺を寄せたままの景勝様の顔を交互に見る。
閉じられていた口が開くのを黙って見つめた。
「…泣いておるように見えた」
景勝様は押し出すような声でそう言った。
「…泣いては、おりませんよ」
「……」
それきり黙ってしまった景勝様は、立てた片膝に付いていた私の右手をぎこちない仕草で取り、花を握らせる。
花を見、景勝様を見た。可憐な色を宿した花は私の手の中で鮮やかにその存在を主張している。
「…御前様が命じて植えられた花ですよ。良かったのですか?」
「…む」
唸った景勝様は、一瞬だけ引きつった顔をすぐさま元の表情に戻し、首を横に振る。構わぬ、と低い声が聞こえた。
私は幸福者だ。この世に息づく全ての生の中で、最も幸福なのだと思った。
だから、彼の人がいるこの地に私の叶わぬ想いと心、その全てを置いていくことは、死ぬその時まで私だけの秘密だ。
運命はもう呟かない