#高校生設定
時折ペンを止めて記憶を辿り、またゆっくりと動かす。紙の上を流れていくシャーペンの芯の、さらさら、という音が私しか居ない教室に穏やかに響いた。
テスト前、部活動も停止となっているため放課後の教室はとっくの前から閑散としている。いつもなら曹丕くんと甄姫ちゃんが教室の一角で二人の世界を作っていたり、部活に行く準備をしながら郭嘉くんが廊下を通る若い女の先生を口説いてたりするのだが、今日はその姿もない。
聞こえるのは、わざと開け放した窓の外から遠くに聞こえてくるグラウンドの楽しそうな声たちくらい。
でも少し寒いかな、とブレザーの袖を若干引っ張ってみたとき、廊下から足音が聞こえた。それはすぐに近くなり、顔を上げると同時に教室の扉が開く。
「――典韋くん」
そこに立っていた姿に少しばかり目を見開いた。そして、はっ、となって机の上に開いた日直日誌を慌てて掴む。
「ご、ごめん待たせちゃって」
「あー、いいんだ。ちと忘れ物しちまっただけだからな」
わたわたとする私に、顔の前で手を振って苦笑する典韋くんは、私の座る席の前の机に置いた鞄に歩み寄った。その鞄を掴み少し探ってから取り出したタオルを私に示して、にかっと笑う。
その笑顔にほっとした私は、小さな笑みを返しながらペンを握り直した。
「すぐに終わらせるね」
「おぅ、急がなくていいぞ。グラウンドで許チョたちと野球やってるからよ」
うん、知ってる。だから少し寒くても窓を開けっ放しにしてるんだもの。
心の中で呟いて、ありがとう、と口に出した。また、おぅ、と笑った典韋くんは私の前の席に横向きに腰を下ろし、何の気なしに私の手元を覗き込んでくる。
いつも部活で忙しい、目の前の彼氏と一緒に帰ることができるのは今日みたいなときだけだ。一緒に帰ろうと折角待ってくれている典韋くんのためにもと、私は日誌に向き直った。日直だからって終礼後すぐに雑用を任せてきた担任の先生が今は少し恨めしい。
「…寒いのか?」
「え?」
典韋くんの声に思わず目を上げる。典韋くんは私の手を指差して眉を上げてみせた。
「なんかよ、書きにくそうにしてる気がして」
「…あー、」
ペンを握る指が僅かにかじかんでいることに気付かれてしまったらしい。曖昧な返事を返す私の、机の上に無造作に置いていたペンを持っていない左手に、典韋くんの大きな手のひらが重なった。
どくん、と心臓が一つ跳び跳ねる。
「冷てっ!大丈夫か、おい」
「あー、うん、大丈夫」
眉間に皺を寄せて私の左手指先を包み込む典韋くんから微妙に目をそらす。勿論、重なった手を見やることなんかとてもじゃないができない。
典韋くんは窓をちらりと見て、片方の眉を上げて少し咎めるように私の顔を覗き込んだ。わざと視線をそらした私の努力も甲斐なしだ。
「窓が開いてるから寒いんじゃねぇのか?なんで閉めねぇんだ」
「だって…」
「ん?」
「…グラウンドの典韋くんの声、ちょっとでも聞こえるから」
ぼそぼそと白状すると、典韋くんが、きょとん、と目を丸くした。手を握られているというだけで私のキャパシティーは限界寸前だというのに、典韋くんはずるい。
そう思いながら、熱を持ってしまった首筋が恥ずかしくてつい唇を尖らせてしまう。
ふと、典韋くんの反応がないことに気付いて、そらしていた目を戻した。そして即座に体ごと固まる。
真っ赤に染まった顔を隠すように頬杖をついて、目線を斜め下にさ迷わせる典韋くんに、私の首筋の熱がゆっくりと上昇していくのが分かった。
ちら、と私を見た典韋くんの真っ直ぐな目と、ぶつかって引き寄せられる。磁石みたいにくっついて、そらすことはできなかった。
私も典韋くんも、一言も発さない。
心臓の音がやけにうるさい。あぁ、でも、今はそれ以外何も聞きたくない気分だ。
スローモーションのようにゆっくりと近付いてくる典韋くんの顔はまだ赤いままで、私はぎこちない動きでなんとか目を閉じた。
気配と微かな息遣いが私の唇に寄せられるのを、今にも破裂しそうな心臓と共に息を詰めて感じる。
「――典韋!!」
突然耳に飛び込んできた声に、思わずばちりと目を開ける。
そして同じようにびっくりした色を映した典韋くんの目が有り得ないほど近くにあって、――私と典韋くんはほとんど同時に、バッ、と身を離した。
どくどくと体の奥から響く心臓の動きに必死になって胸を押さえると、典韋くんは慌てたように私の手を離して窓際に駆け寄った。
「…な、なんだぁ!?急に呼ぶんじゃねぇ!心臓に悪いだろうが!……分かった、すぐ行く!」
人間ポンプにでもなってしまうんじゃないかこのままだったら。
そんな混乱し切った思考の私に、グラウンドにいる皆と話し終えたらしい典韋くんは微妙にぎくしゃくと近付いて、口を開いて数秒固まった。私も身動きできないまま典韋くんを見つめ返す。
「お、終わったら、声、かけてくれな。下で、待ってるから、よ…」
「…う、うん…」
しばらくの沈黙。
それから典韋くんは我に帰ったように、また後でな、と言い置いてばたばたと教室を出ていった。
残った私は未だうるさく脈打つ心臓を抱えて、両手で自分の頬を包んだ。さっきまでの寒さが嘘みたいに熱い。
気を抜くと、典韋くんへの気持ちが溢れてしまいそうだ。蓋をするかのように私は強く頬を包み込んだ。
典韋くんが取りに来たはずのタオルが、鞄の上に置きっ放しになっているのに気付いたのと、窓の外から、許チョくんの名前を叫ぶ典韋くんの声がしたのは、それからすぐのことだった。
ダリアにくちづけ