すっかり夜の帳に包まれた邸内は静まり返り、風が鳴るかすかな音がするだけ。女官たちも床についたらしい夜更け、私は寝台に身を横たえたまま暗闇に慣れた目で窓の外をぼんやりと眺めていた。
今夜は月が隠れている。一面に墨を流したかのような夜空はまるで吸い込まれそうなほど深い。
――と、不意に窓が小さな音を立てて開けられた。
ひらり、と人影が踊る。
その影は勝手知ったるといった風情で軽やかに窓枠を越え私の室に足を下ろした。
そして、私を見つめ静かに微笑む。
「あぁ、月が無くともあなたの美しさは輝き立つようだ」
「…郭嘉様」
そっと身を起こした私に、彼は上品な仕草で裾を払い、こんばんは、と囁いた。
私は寝台から下りると郭嘉様にゆったりと会釈を返し、卓の上にすでに用意してあった茶瓶と茶器を手に取る。郭嘉様も、あぁ、と笑って卓の前に腰を下ろした。
静かに瓶を傾け茶器を満たせば、郭嘉様はいつものように薫りを確かめられてから茶器を持ち上げる。
「酒も良いが、茶も悪くないと思えるようになった。あなたのお蔭かな」
「まぁ、嬉しいです」
そっと口をつけた郭嘉様は、味わうように閉じた瞼をほんの少し震わせてから口許に笑みを浮かべた。その白い喉が微かに上下するのを見つめる。
「…あぁ、唯緋殿の淹れる茶はやはりどこか甘い」
「お嫌いですか?」
「まさか」
低く囁いた郭嘉様が、目を細めて茶器を卓の上に置く。かちり、という乾いた音に重なって、僅かな衣擦れの音がした。
柔らかな力で寝台へと縫い付けられた私は、微かな夜灯りにほんのりと照らされた郭嘉様の顔を見上げる。頬が白い。
郭嘉様は艶やかに微笑むと、私の首筋に唇を落としながら冠を脱いだ。触れる唇は冷たかった。
*
郭嘉様は五日と空けずに私の邸を訪れる。決まって夜、世界の全てが寝静まったように思える頃合いだ。
そして彼は茶を飲み、私を抱いて、夜明けと共に帰っていく。
「朝が私は憎い。あなたの元から去らなくてはいけないから」
「また夜が来ますわ」
「それならば、ずっと夜であればいい。そうすればあなたとずっと共に居られる」
おかしなことを言う方だ。夜しか無くなってしまえば、私の元になど来なくなる癖に。郭嘉様は恋多きお方だから。
今夜も郭嘉様はやって来た。今宵は月がよく見える、と微笑んでいる。
月の光に映し出された郭嘉様の横顔は青白かった。
「郭嘉様、」
「なに?」
「郭嘉様は、戦で滅ぼした相手のことを全て覚えておいででしょうか?」
一瞬、虚をつかれたような表情になった郭嘉様は、すぐにいつもの笑みを浮かべて小さく眉を下げた。静かに空になった茶器を卓に置く。
「…どうして?」
「郭嘉様は優秀な軍師様。私などのような人間よりも多くのことをその目で見てこられたのだと思いまして」
「…あなたは変わった女性だね」
口に手をやりながら苦笑する郭嘉様の目を見つめる。彼は眉をすっと引き延ばし、そっと私の手に手を重ねて顔を寄せた。
「あなたの美しさの前では、そんな無粋なことは忘れてしまう」
「……そう、良かった」
触れた先から衣を割ってくる指先は、ひどく冷たい。
*
またしばらくして、郭嘉様は私の室に忍んで来られた。
私を見て微笑む顔はやはり艶やかで、しかし日ごとに増していく翳りや青白い色が彼から生気を奪っているように見えた。
「…唯緋殿の茶が飲みたいな。あれを飲むと、不思議と穏やかになる」
「まぁ、嬉しいです」
私が茶瓶から注いだ茶を、郭嘉様は静かに口にしてどこか力無く笑みを浮かべる。
「あぁ、やはり甘くて良い薫りだ。…まるで、あなたのようだね」
郭嘉様の言葉に私はゆっくりと微笑んでみせた。
郭嘉様は茶器を置くと、私の側へと近付き耳元に口をつけて囁く。
「私とあなたとの夜は、二人だけの秘密。誰にも明かすことは無い、秘密」
「……えぇ、秘密です」
秘密。
いつか、郭嘉様の指揮によって滅ぼされた一族に生き残りがいたこと。
その生き残りである者は、夜な夜な用意する茶に毒を混ぜていること。
その茶は、甘く芳しいこと。
まるで、私のようだとあなたは言った。
秘密