淡い記憶がある。
今でも瞼の裏にぼんやりと浮かぶ姿は、その年齢に似合わない難しそうな表情をいつも浮かべていた。
まだ字も持たない少年だった彼の名は知らない。知っていたことは、魏軍に仕える将の子であるということと、真面目で本が好きだということだけだった。
ある雨の日、宮の中庭にある東屋で出会った私と彼は、それから幾度かその場で逢うようになった。
約束なんてものは無かったが、雨の日にふと思い付いてあの東屋に足を向けると、彼はいつもそこにいた。そして私の姿を見つけると、彼は生真面目に寄せられた眉間を緩く解いて不器用に笑うのだ。偶然ですね、と。
僅かな時間、彼と何を話したかはあまり覚えていない。他愛のない世間話のようなものだった気もする。
一つだけ、今でもはっきりと覚えていることがある。
私と彼は一度だけ、口付けをした。指一本触れ合うことすらなかった私達の、唯一の接触であった。
吸い寄せられるように重なったそれが静かに離れたとき、彼は確かに瞳に恋を映して私を見つめていた。私は彼をどんな瞳で見つめ返したのか、今となってはもう思い出せない。
そして程無くして、病に罹った私は都近くの邸宅で療養に籠ることとなり、宮へ上がることも無くなってしまった。
雨の東屋の少年とはそれきり会っていない。そうして今でも、雨が降る日に思い出す。
「――姉さま?」
はっ、となって目を上げると、卓を挟んで向かいに座る妹が不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。慌てて首を振りつつ笑うと、まだどこか訝しそうだったが納得したように表情を緩めた。
「調子が悪いんだったら気にしないで休んでね」
「ありがとう。ごめんね、久しぶりに来てくれたのに」
「…姉君殿はお身体があまり強くないのですね。大事になさって下さい」
生真面目な響きの声がゆったりと紡がれ、私は瞬時に身を固くする。なんとか口元に曖昧な笑みを浮かべて応えるが、また手元に落ちた目線をその声の主に向けることはできなかった。
そんな私の様子には気付かないらしい妹が、隣に座る彼に嬉しそうに礼を言っているのが聞こえる。その声はどこか甘さを含んだもので、私は誰に言えばいいのかも分からない恨み言を心の内で呟くしかなかった。
将として魏軍に仕えている妹は、現在大きな力を持つ司馬懿殿に目をかけて頂いているらしく忙しい日々を送っている。宮に与えられた室で寝食を済ませるのが常となり、私と二人で暮らす邸宅にはあまり帰ってこない。
そんな風に生き生きと働いている妹は私の自慢の妹だ。あの子のためなら何だってしたいと思う。
そんな妹が、日頃から睦まじくさせてもらっているという男性を連れて帰ると昨夜連絡をよこしたのだ。私は勿論喜びいさんで準備をし、二人を待っていた。
そして、妹の隣に立つ姿を見て、――息が止まるかと思った。
*
「偶然ですね」
記憶の中のものと寸分違わぬ台詞は、聞き慣れない声で耳に届いた。声変わりはしてしまったが、どこか神経質な堅い響きは昔のままだ。
振り向いて、戸口に立つ彼をゆっくり見上げる。いつもの癖で室の戸を閉めなかった自分を叱咤した。
「まさか、このような形でまたあなたに会えるとは」
「…諸葛誕、殿」
「…昔は呼んでもらえないままだった私の名を今、呼んで下さる。感慨深いものです」
にっこりと微笑んだ彼は、ぎこちなく固まったままの私をそのままにあっさりと室に足を踏み入れ、扉を静かに閉めた。反射的に身構えた私に、柔和な雰囲気を浮かべていたはずの彼の目がきらりと光った気がした。
そして、一瞬の内に距離を詰められる。
「…ずっと、あなたに触れたかった。あの日のように」
「な、何を、」
「突然あなたが居なくなり、どれほど私が絶望に駈られたか分かりましょうか?」
何の躊躇いもなく私の腕を掴んだ彼の手は大きく、私をどうしようもない恐怖に突き落とすかのようで。必死に振り払おうと身を捩ってもびくともしない。
また一歩近付いてきた彼を思わず見上げて、即座に後悔した。私を見つめる彼の目の、奥底の見えない闇のような黒色に、ぞくり、と背筋が冷える。
「なのにあなたは、私から逃げようとなさる」
「そ、それは、諸葛誕殿は私の妹の、」
「ひどいお方だ」
「――っ、」
私の腕を掴む手に力が込められ、その強さに小さな悲鳴が喉奥から溢れる。そんな私をどこか恍惚と見下ろしながら、彼は私の耳朶に唇を寄せた。
あぁ、やめて、お願い。
「――唯緋殿、あなたを愛している」
最後の悪足掻きに懇願した私の心が粉々に崩れ落ちる。崩れていく奥に、記憶の中の少年の不器用な笑顔が見えた気がした。
強い力で肩を押され、後ろにある寝台に縫い付けられる。
処刑台で、私は今から殺されるのだ。
罪というには甘い