#高校生設定



「元姫」
「…」
「行ってあげなって」

手元の文庫本から目を上げずに、向かいに座る友人を促すと、彼女は軽い溜め息をついて席から立ち上がった。
私だって一応血の通った人間な訳で、教室の扉から捨て犬のような目で私の友人を見ている無駄にガタイの良い色黒男を不憫に思ったりもする。まぁ十中八九、その色黒男が何かいらんことをして元姫がキレたんだろう。この二人は週一ペースで今みたいな状況になるから。

元姫の前で両手をつき合わせて平謝りする彼に、元姫は一度だけ軽く溜め息を吐いた。
ここから声は聞こえないけど、仕方ないな、と腰に手をやっていからせた肩を緩めた元姫の背中はもう怒ってはいない。
今日はあっさり収まるパターンだったな、と思いながらまた手元に落とした私の視界に、さっきまで元姫が座っていた席にさも当然の様に腰を下ろす姿が見えた。

「…何、賈充」
「子上に大事な用があるから付いてきて欲しいと言われた」
「…」
「まぁ察しの通りだ」

司馬昭君のヘタレ行動に付き合わされたらしい賈充を、ちら、と見やる。相変わらず清々しいほどの無表情である。

「飽きもせずよくやる」
「…ま、確かに」

ふぅ、と息をついた賈充は額にこぼれた前髪を掻き上げながら私に目を向けた。



「――恋とはそんなにも良いものなのか」



思わず本から顔を上げて目を瞠る。今、目の前のこの男の口から不似合いにも程がある単語が聞こえたのは私の気のせいだろうか。
言葉が出ないままの私を気にとめる様子もなく、賈充は言葉を続ける。

「あの二人を見ているとそんな疑問が湧くものだ」

どうやら気のせいではなかったらしい。
賈充は、いまだ教室の扉付近で話し込む元姫と司馬昭君を見ながら表情一つ変えずに言う。私はまじまじと賈充を眺め、冷静になった頭にひとまず安堵してまた本に目を落とした。

「…さぁ。私には分かんないな」

私にとっても、あの二人はまるで違う世界の人間を見ているようなのに。まるで、タイトルからは分からない恋愛小説を間違えて読んでしまったときみたいな。
活字を目で追ったまま、賈充だってそうでしょ、と続ける。

ふいに、賈充が小さく笑ったような気がした。



「――よくは分からないが、本ではなく俺を見ろ、とは思うな」



え、と思わずまた目を上げると、弧を描くように口の端を持ち上げた賈充と目が合った。
こいつは今、何と言った?

唖然となったまま固まった私に頓着する様子もなく、賈充は席から立ち上がり司馬昭君を連れて教室を出ていった。
程なくして席に戻ってき元姫は、賈充達が去っていった扉の方に顔を向けながら不思議そうに口を開く。

「唯緋、賈充殿と何の話を?」

「…なんか、口説かれた」
「…は?」

ぽつり、と溢した言葉に元姫が怪訝そうな表情を浮かべるのを、ぼんやりと視界の端で見ていた。

――何てことだ。本の内容なんか、すっかり忘れてしまった。




トランジスタに絶唱



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