考えてみれば俺は、恋というものをしたことがない。
何しろそんな必要に迫られたことがないのだ、仕方ないだろう。俺より前からこの軍にいるとある偉大な偉大な軍師殿のように、不特定多数を愛するなんて真似はできないし、まぁ、やるつもりも無いわけだが。
だから、正直、進退窮まっているということだ。



「――あの、賈ク殿?」

俺とは正反対の澄み切った声音に、ぼんやりとしていた意識が呼び戻された。
瞬きを一回。それだけで視界に、不思議そうな顔をした唯緋殿の姿が現れる。

「…あぁ、ちょっとばかり考え事を」
「そうでしたか。声を掛けられて振り向いたら黙り込まれるから、ちょっと焦りましたよ」
「あははあ、そいつは失敬」

どこか違う世界に飛んで行っちゃったのかと、と言って悪戯っぽく笑う唯緋殿からさりげなく視線をそらし、作り笑いを返す。
間違いではないから困ったもんだ。今目の前で笑う誰かさんと俺の二人だけの世界に飛んでいた、というのは俺にはいささか甘すぎる。
我ながら滑稽なほどの似合わなさだ。自嘲気味の笑いが鼻を鳴らしかけ、どこか楽しそうに書棚を整理する唯緋殿の前、なんとか堪える。

「あ、賈ク殿。そういえば何か資料をお探しだったのでは?」
「ん?…あぁ、まぁ、」
「私で良ければお手伝いしましょうか?よく暇なとき整理してるのでお役に立てると思いますよ」

狭い室内に詰め込むように設置された書棚と、そこに鎮座する大量の竹簡を背に、唯緋殿は得意そうに満面の笑みを浮かべて俺を見つめる。その姿に、俺からの命令を喜び勇んで待つ忠実な犬を想像しかけ、――心中慌てて振り払う。
これはよろしくない。
打算で生きてきた俺にとって彼女は、まるで眩しい毒だ。

「いや、大した用じゃあない。お気になさらず」
「そうですか?なら良いんですけど…」
「いや、唯緋殿はお優しいね。こりゃ男連中が放っとかない訳だ」

相手に鎌を掛けて引っ掛けるのはお手の物。だが、唯緋殿は首を軽く傾げて不思議そうな顔をするばかり。

「他の方も皆、お優しいですよ?郭嘉殿は美味しい物をよくご馳走してくれますし、張遼殿や徐晃殿は物を運ぶとき手伝ってくれたりしますもの」
「あー、そうですか」

かの好色軍師殿の手はここまでも伸びているらしい。一番に上がった名前に頭痛を覚えつつ、後に続くように登場した御仁達の名に俺は思わず口元を引き攣らせた。
こいつは本当、困ったもんだ。
遠回しに探るしか知らない俺の方法では、彼女はかなり手強い部類に入ってしまうらしい。

気付かれないようにと溜め息を吐きかけた俺に、唯緋殿は、あ、と表情を綻ばせて続けた。



「賈ク殿もお優しいです。こうして書棚の整理を手伝ってくれたり、話相手になってくれたり」



正攻法なんて、やったことすら無いんだが。
とりあえず、まずは食事にでも誘ってみるか?今夜辺り。




欲情するのはもう飽きた



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