ふと、顔を上げる。
城内は不自然なほどの静寂に包まれていて、胸騒ぎを感じ得ない。いつもと変わらない夜の一つのはずなのに、どうにも嫌な予感がしてならなかった。
誰かの顔を見ないと安心できないような気がして、私は読んでいた書物を文机に置き寝台から立ち上がった。
――途端、室の窓が小さく音を立てた。
「…仲権!そんなとこで何して、」
「唯緋」
月明かりを背に浴びて窓の外に現れたのは見慣れた仲権の姿で、私は少しだけほっとする。
でも何で窓から、という疑問を胸に浮かべたまま窓際に歩み寄った。
「どうしたの仲権、普通に扉から来たらいいのに」
「…ん。まぁ、な」
「もしかして仲権も今夜の空気違和感ある?私、何だか胸騒ぎがして」
「…唯緋」
名前を呼ばれて見つめた仲権の目が、夜を嵌め込んだかのように暗くて私は思わず身動ぎをした。仲権が纏う雰囲気も、普段の彼からはあまり感じないものだと気づく。
「…なぁ、唯緋…聞いてくれ」
「仲権、仲権どうしたの?今日なんか変だよ?」
「唯緋」
そっと目を伏せた仲権に、私の胸が嫌な音を立てる。
「俺、今夜魏の国を離れる。離反する」
――え、
喉の奥から僅かに零れた言葉は、静かな室に響いた。
彼は、今、何と言った?
「ここは、父さんたちの愛した国だ。俺だって大切に思ってる。でも、もう、昔の魏の国とは違う国なんだ」
「仲権、うそ、嘘でしょう?」
「嘘じゃない。これ以上この国に留まれば、俺は…」
苦しげに口元を歪めた仲権に、近頃の魏国の情勢が頭をよぎった。度重なる反乱、相次ぐ政権争い、司馬家の台頭。
確かに私たちの魏の国は変わってしまった。
「仲権、どうして…」
「…唯緋。お前には伝えときたかったんだ。俺ら、ずっと一緒にいたから」
「だったらどうして、」
離反なんて、と続けようとした言葉は口から出なかった。
窓から身を乗り出すように、仲権に抱き締められたからだ。
「ちゅう、けん」
「なぁ、唯緋……一生のお願いだ」
私の肩を掻き抱く手はあまりに優しく、震えていた。
「俺と一緒に来てくれ」
仲権の言葉に、体が強張るのが分かった。仲権もそんな私に気づいた様で、震える腕をそっと外して私の体から少しだけ離れて真正面から見つめてきた。
「お前とは離れたくないんだ。勝手なこと言ってんのは分かってる。頼む」
「そんな、そんなの、」
「俺、お前が好きだ」
全身を雷で打ち抜かれたように動けなくなってしまった私に、尚も仲権は、好きだ、と呟く。
「唯緋は俺のこと、嫌いか?」
「そんなわけない、仲権、」
「唯緋、好きだよ」
「仲権――」
彼の両目に自分の姿が映っているのを見て、私は何も考えられなくなってしまう。
「…好きよ、仲権」
ひっそりと零れた言葉に、仲権は泣きそうな笑顔で応える。
もう、昨日までには戻れない、とぼんやり思った。
「…唯緋。お前の残りの人生、俺にくれ」
差し出された仲権の手に、私は震える手をゆっくりと伸ばした。
夜はまた、静寂に包まれていた。
僕と最後の恋をしよう