例えば、今のこの状況。
一から懇懇と膝詰めで説いてやりたい気持ちは多々あるが、彼女には意味の無いことなのだろう。
思えば、彼女――唯緋は最初から親切すぎる程に親切だった。私が魏に降ったばかりの頃、既にそれなりの立場だったのだから古参の将と言っても間違いではない。なのに、私に友人のように接し気を遣ったり笑ったり冗談を言ったり。彼女のそんな態度を不思議に思いながら、どこか居心地良く感じていたのも事実だ。
だからこそ、危ういと。勘弁して欲しいと。そう思い始めたのは少し前のこと。
彼女は他の御仁にも私と同じように接するのだろうか、とか、私をこんなにも危うい気持ちにさせる顔を簡単に周囲にも見せているのだろうか、とか。(将軍にそう聞いてみると、将軍らしからぬ美しくない表情を浮かべられた)
彼女をどうこうしたいという訳では、と考えて、心の中で小さく頭を振る。そんなものは建前だ。なんと美しさに欠けることか。
掴んだままの彼女の手首に目を落とす。それは私の手には余りにも細く、吸い付くような肌の感触に目眩を起こしそうだ。
あぁ、美しくありませんね。
張コウ殿が私の手首を掴んだまま呟くように言った言葉に、びく、と肩が跳ねる。燭台の灯りだけが照らす張コウ殿の執務室は薄暗く、張コウ殿の顔色は窺い知れなかった。
夜も更けた頃、何故だか寝付けず仕方なく寝所を出て歩いていると、灯りの漏れる室があった。そこが張コウ殿の執務室だとすぐに気付いて、こんな時間まで机仕事だろうかと不思議に思い(肌に悪いから、と張コウ殿は夜更かしを滅多にしない主義だ)そっと室を覗くと、書物を前に椅子に座ったまま眠る張コウ殿の姿があった。
色々と珍しい、と思いながら張コウ殿の寝顔を眺める。睫毛などは女の私なんかより長くて、相変わらず肌も綺麗だ。触れてみたらどんな感じなんだろう――とそこまで考え、はっ、となる。
人の寝顔をこっそり見つめて、なんて恥ずかしいことを考えているんだ私は。
熱くなる頬に焦りつつ、張コウ殿が風邪を引かれてはいけない、ともっともらしい理由をつけて慌てて室の戸を閉め後にした。自分の室に戻り、そして肌掛けを手にもう一度張コウ殿の執務室へ向かう。まだ灯りが漏れていることに安心しつつ戸を開け、――書物を手に立ち上がっている張コウ殿とばっちり目が合った。
反射的に逃げようとした私の手首を掴んだ張コウ殿に、完全に固まってしまい、今に至る。
「…すみません、勝手に室に入ろうとしたりして、」
恐る恐るそう言うと、張コウ殿は顔を上げて(やっと顔が見えた)困ったように微笑んだ。
「…いえ、失礼しました。先程のは私自身に言ったのです」
「え、あ、そうなん、ですか」
「えぇ、しかし…」
一歩、私に近付いた張コウ殿は、私の手首を掴んだ手とは反対の手を伸ばし、私の背後にある室の戸を静かに閉める。ふっ、と何故か背筋が粟立った。
「どの様な理由があれ、こんな時間に男の室にやって来るのは感心しませんね」
ゆっくりと持ち上げた私の指先に唇を落としながら、低くそう囁いた張コウ殿に、私の体は呼吸の仕方を忘れたように息を止める。
待って、体が、動かない。
今にも消えそうな燭台の灯りに照らされた張コウ殿の横顔は、いつもと変わらず美しいのに、
私を射るように見つめる目の、なんと獣染みたことか。
ぱさり、と、持っていた肌掛けが落ちる音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
狼と羊
私の身体にすっぽりと捕らえられた貴方はただの獲物だ。試しに歯を立ててみたら、どんな味がするのでしょう。