#社会人設定
昔、私がまだ小さな小さな少女だった頃。
隣の家に住んでいた、私の憧れだった綺麗なお姉さんがいて。
お姉さんがクリスマスの日、見惚れるほどに綺麗な微笑みで私にそっと言った。
『今日の夜ね、8時になったら、サンタさんがうちにやって来るの』
それは絵本の中だけのお話だよ、と大人ぶって得意気に言った私に、お姉さんは悪戯っぽくウインクをした。
『大人になったら、あなたも分かるわ。そのうちに』
そう言ったお姉さんはやっぱり綺麗で、そしてどこか幸せそうに見えた。
*****
柄にもなく淡い記憶に浸っていた頭を軽く振って息を吐く。
もう何度目か分からないほど見上げた壁掛け時計は11時を過ぎたところ。
普段から約束の時間に間に合わないことは多々あるが、今日に限っては強い苛立ちを感じてしまう。
「…あの社長絶対いつか呪ってやる…」
そもそも、ワガママな社長に文句言いつつ付き合う惇も悪い。それが甘やかしていることだと気づいてないことはもっと悪い。
そして社長の手の上で転がされてると露ほども思っていないなんてもはや呆れる。
そんな仕事バカ・上司バカに不満を言いながらも側にいる私も相当なバカなんだろう。全く恥ずかしい話だ。
とても人にはそんなこと思ってるなんて言えない。
それでも、今日は違った。
私の家で過ごすことが通例となったクリスマスの日の朝に「今日は8時くらいには帰れると思う」と言うのは毎年のことだった。それが叶ったためしがないのも毎年のことだった。
私はもうバカ社長と社長バカのことは割り切っているので、女らしく可愛く「ずっと待ってたんだから」なんて怒りはしない。今までだって一度も。
詫びだ、と言って美味しいご飯に連れて行ってくれたり欲しかったものを買ってくれることを現金に喜んでいたくらい。
それでも、今日は違ったのだ。
「…慣れないことなんかするもんじゃないのかなー」
テーブルに座った私の目の前、惇の指定席に並べられた料理は、冷めきって惨めそうにそこに佇んでいた。
具がかなり大きめでデコボコしてしまっているクリームシチューは表面に薄い膜ができかかっている。
隠してある裏側が若干こげてしまったチキンステーキはもうハリもツヤも全くない。
切って焼いただけのバケットですら美味しくなさそうに見える。
冷蔵庫で眠ったままのシャンパンは出番すらないんじゃないか、と考えてまた一つ溜め息が出た。
嫌味ったらしく食卓はそのままにしてふて寝してやろうか、なんて思ったとき、玄関扉に鍵を差して回す音が聞こえた。
面倒くさくて身動きすらしなかった私は、廊下の扉を開いて私に近づく足音をただ聞いていた。
「…遅くなってすまん」
毎年と同じ台詞を呟いた惇の顔を見上げる。疲れているようだが相変わらずキリッとした良い男である。
そんな良い男は眉間に皺を寄せたまま食卓を見つめて口を真一文字に結んだ。鞄の柄を掴んでいる手がさっきより強く握り締められるのが私の視界に映る。
「…唯緋が作ったのか」
そうだよ、慣れない料理なんかして待ってたんだよ。
喉の奥で突っかえた言葉は勿論口から出ることはない。
その代わりに出てきた言葉は毎年私が言う言葉だった。
「仕方ないよ、別に怒ってないし大丈夫」
「…そんな顔で大丈夫などと言うな」
私は一体どんな顔をしていると言うのだろう。
そんな疑問を抱きながら見上げた私の顔を、惇は片腕で自分の胸に押し付けるように抱き寄せた。
鞄を置く音がして、もう一方の手がぎこちなく私の髪を梳く。
そんな柄にもないことを惇がするから、私もつられてしまったに違いない。
「…私がどんな顔してるかは分からないけど。そんな顔になってるのは誰のせいか、ってね」
「…悪かった。俺のせいだ」
「…慣れてるけどね」
「俺が言えた義理ではないのは百も承知だが、…そんなことを言うな」
普段の自分なら虫酸が走るような言葉に、私の髪を梳く惇の指がほんの少し優しくなる。
本当、お互いらしくない。
私がそっと惇の上着を掴むと、惇は私の髪を梳くのを止めた。
「結婚するか、唯緋」
やけにはっきりと聞こえた言葉に、私は噛み締めるような間を置いてから、上着を掴んでいた手を惇の広い背中に伸ばした。
それに応えるように私の肩を惇の両腕が包む。
あぁ、本当にらしくない。
「うん。結婚しよう」
そう言った私に、普段なら口にも出さないような甘ったるい言葉を囁いた惇の、纏った冷たい冬の空気を私はゆっくりと吸い込んだ。
あの時の綺麗なお姉さんと同じように、私のうちにも、やっとサンタがやって来たようだ。
遠い街へと連れていくの
―――――
(BGM:恋/人/は/サ/ン/タ/ク/ロ/ー/ス)