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社会人になって約半年。新しい環境にはまだ慣れなくて、今日も今日とて疲れ切っていた。職場の先輩達は皆それとなく優しいけれど、やはりそろそろ慣れてほしいと思っているのだろう。少しずつだが棘の目立ち出した言葉の1つ1つに思わず溜息が溢れる。‥あー、今日のご飯どうしよう‥

「‥あれ、ナマエ先輩?」

そうして、いつの間にか爪先の擦り切れた黒いパンプスをぼんやりと見下ろしていると、後ろから聞いたことのある声がした。あれ、この声誰だったっけ。そうして振り向いて蘇るのは高校の青春時代。男子バレー部のマネージャーを務めていた頃の、1つ歳下の顔見知りがそこにはいた。

「あれ‥‥衛輔‥?」
「はい、お久しぶりっすね!」

屈託のない人懐っこい笑顔に、私も思わず口角を上げてしまう。高校時代に私が1番可愛がっていた後輩だったのだから無理もない。部活用の鞄や制服が少し草臥れているのを見ると、相変わらず頑張ってるんだなあって考えて少しだけ今の自分と重ねてみてしまう。‥卒業式であれだけ「卒業しても頑張ってくださいね!」なんて盛大に祝い出されたっていうのに、今の私ときたら疲れ切った情けない先輩にしか見えていないだろう。

「‥なんか先輩痩せました?」
「えっ?そうかな‥」
「目に隈できてますよ。仕事大変なんですか?」
「うわ、ちょっと勘弁して」

化粧で隠してるつもりだったのにまさか落ちてるのかな‥慌てて目の周りを手で隠すと、大きな溜息が出た。ああ、まさか後輩の前でこんな姿を晒すことになろうとは‥これでも現役時代、弱味なんて誰にも見せずに過ごしてきたし、なんなら泣き言を吐く部員の尻をいくらでも叩いてきたのだ。もちろん衛輔だって‥例に漏れず、である。

「なんからしくないですね。‥つか、珍しいです、そんな顔してるの」
「大人の世界はしんどいよ衛輔‥」
「弱音‥超レア‥」
「ちょっとバカにしないでくれる?」

別に私だって生きててずっと尻叩けるような人間でいれるわけではない。‥と、今心底思わされている。随分と恥ずかしい所を見られてしまったと考えてみても遅いので、苦笑いをして誤魔化した。

「衛輔こそ部活どうなの?随分遅くまで頑張ってるみたいだけど」
「当たり前じゃないですか。試合も近いし。つーか、卒業式の日試合絶対見に行くからって言ってませんでしたっけ?インハイの予選とか1回も来なかったっすよね」
「うっ」
「俺、絶対来てくれると思ってたから。‥結構ショックだったんですけど」

少しだけツンとした口元を見て思わず後退った。いや、行く予定ではいたのだ、試合の噂は聞いていたし、仕事だって休みの予定だったし。だけど、予定ということは仕事が入ってしまったという訳で、そしてその理由はもちろん私が任されていた仕事が終わらなかったからだ。"行く"と公言した私はそこから思い出の音駒と少しずつ距離ができてしまっていて、‥まあつまり今に至る。距離ができたと思ってしまったのはもちろん私の勝手ではあるけれど。だけどだ。

「‥ごめんね、行くつもりはあったけど‥ちょっと忙しくて、1回顔出さなかったらなんだか行きにくくなっちゃって」
「なんすか、そんなこと」
「そんなことって‥あんたねえ‥」
「‥‥無理矢理でも迎えに行けばよかった」
「何言ってんの」

試合の為に元マネージャーを迎えに行くとか凄いな。冗談でも嬉しいわーなんてケラケラ笑っていたら、ふと目が合った瞬間の衛輔の顔にぴたりと息が止まる。‥その男らしい、真っ直ぐな瞳を向けた顔は私が1番好きな顔だったから。ふと思い出す、衛輔を好きだった頃の甘酸っぱい感覚を。

「俺、次会った時は絶対言おうと思ってたから」
「何を?」
「‥次、試合見に来てくれた時に言います。じゃないと先輩来なさそうだし」

好きだった頃。‥それは違う。衛輔より私が1つ歳上で部活の先輩マネージャーだったからと、卒業したと同時に蓋をして紐でぐるぐる巻きにしたあの感情は、見えないだけでまだ暖かく熱を灯している。

ふわりと前髪を触られた瞬間に何が起こったのか分からなかったけれど、ほとんど変わらない身長差でほんの少しだけ背伸びをした衛輔が近くなって、離れていくのだけはぼんやりと認識していた。

「予約」
「‥へ、へえ‥?」
「試合の日と、ナマエ先輩のこと」

おでこが熱が出た時以上に熱い。疲れていた体がじわじわとエネルギーを補給しているみたいで、心臓がばくばくとうるさく高鳴っている。それじゃあ失礼します!、なんて律儀に腰を折った衛輔の顔がゆでだこになっていたことを彼は自覚しているのだろうか。

「‥失礼しますじゃないっつーの、」

走り去っていく背中を見ながら、私はおでこの温もりに手を当てる。そうして次の試合がいつなのかをキャプテンの黒尾に連絡するあたり、私も相当単純な女なのだ。

今週、新しい靴を買ってこよう。
さっきまで絶望だった思考回路は、衛輔で埋め尽くされていた。

2017.09.01