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初恋は、無残にも散っていった、昨晩。ぼんやりとしながら起き出した頃、既に昼を過ぎた時間だった。なんというか俺も間の悪いというかタイミングの悪い男である。いやそれともあれか、昨日木兎のチャーハンを横取りしたのがいけなかったのだろうか。
今日はそんな俺の傷心っぷりに合わせてくれているのか、吃驚する程の酷い雨だ。カーテンを開ければ窓に水滴がいくつもいくつも散らばっている。折角の休みなのに、どこにも行く気が出ない。‥というよりは、折角の休みだからってどこかに行こうとは思えないが。

ぐううと腹が鳴る。そこでやっと俺は腹が減っていたことを認識して、のろのろと冷蔵庫へ向かった。パンと、卵と、細切れ肉と、ヨーグルトにチーズ。あとはなんか、米のおかずにしかならなさそうなスーパーのお惣菜。昨日の夜は苗字さんと彼氏が一緒にいるのを見たせいで何も食べることが出来ず、風呂に入ったらそのままベッドへ直行してしまったから、いい加減なんか腹に入れろよって体が警報を鳴らしているのだろう。

甘めの厚焼き玉子を作っている間に、パンをトーストする。そうしてからしとマヨネーズを混ぜたものをパンの片面にそれぞれ塗って厚焼き玉子を挟めば、今現在俺のバイト先の居酒屋で人気の賄いの出来上がりだ。‥まあ、スタッフだけの裏メニューなのだが。

「彼女がほしい」とか、そういう欲求ではない。「苗字さんと仲良くしたい、あわよくば」が俺の今思うところである。出来たての厚焼きサンドイッチを、ぼんやりとしながら口に挟むと、大きな溜息が出た。そのままテレビのリモコンに手を伸ばして電源をつけようとしたのと同じタイミングでお隣さんからまるで漫画のような「どんがらがっしゃん!」という吹き出しでも出てきそうな物音がした。

「え‥なに‥?」

驚いた瞬間に、パンの間に挟んでいた厚焼き玉子がテーブルの上に転がった。
いや今はそんなことどうでもいい。一体何があったんだ、というか、今の音って205号から聞こえたよな‥?
もしかしたら昨日の彼氏が泊まりにきて、今朝から何か大喧嘩でもしているのか?とも思ったが、それにしては大声も叫び声も聞こえてこない。しんとするお隣さんからは、まるでさっきの物音がウソみたいに静かになっていた。

「‥まさか死‥」

いやそんな訳あるか。アホか。いやでも待てよ、100の確率でそうじゃないと言い切れるかと聞かれると、それは首を縦に振り辛い。もしかしたら本当に何かがあったのかもしれない。いやでも彼氏いるだろ、いないの?いないとすればそれはおかしい。だって昨日のアレは絶対泊まっていく流れだっただろ、むしろ俺が苗字さんの彼氏だったら問答無用で泊まってるし朝帰り確定ですよ!

まだまだ温かい厚焼きサンドイッチを皿の上に置いたまま、俺はぼさぼさの髪を整えることもせず、グレーの上下スウェットで部屋を飛び出した。何もなければそれでいい。これで玄関を叩いた時に迎えてくれるのが彼氏さんだったとしたら、俺はどこまでも可哀想な奴だなと思うことしかできないだろう。

「‥あの、苗字さん?隣の黒尾です、大丈夫ですかね?なんか、凄い音が‥」

ゆっくり、恐る恐る。変な奴ではないことを告げた上で、そっと中の様子を声で確認する。‥なんとなく、俺の声に対しての返事が聞こえる気がするが、呻き声みたいな、腹の減った猛獣(いやマジで失礼なのは分かってんだけど)みたいな変な音がした。なに、危ない動物でも飼ってんの?と首を傾げつつ、掴んでいたドアノブを無意識に回してしまう。あ、やべ。そう思った時には既に遅く、目の前に広がった光景に、俺はぽかんと立ち尽くしてしまった。

「ちょ、苗字さん大丈夫!?」

俺が聞いた大きな物音の正体は、どうやら上の戸棚から色んな物が落ちてきた音だったらしい。小麦粉だか砂糖だか塩だかに塗れた苗字さんの後頭部や背面は、まるで「お笑い芸人か?」と錯覚させるくらいに見事に真っ白で、思わず出かけた笑いを噛み殺す。いや、これが全て食器だったりしたら、この真っ白な粉は真っ赤な血だったかもしれないし笑いごとではないのだが。そうしてほぼ無反応の苗字さんの様子を近くで確かめる為に、一つ「お邪魔します‥」とお辞儀をすると、そっと屈んで顔を覗き見てみた。はらはらと落ちる白い粉達を掌でぱさぱさと払いながら。

「‥くび‥おれてないですか‥」
「おう‥?喋れてますし‥問題ない、かと‥?」

どうやら、首が折れてるか折れてないかも自分で確認出来ないほどに混乱しているらしい。にしても随分フラフラとしてるけど、どうかしたのか?と思いつつ、右の掌に残ったガラスのコップに目を向ける。‥成る程、水が飲みたかったのか、と気付くと同時に鼻に纏わり付く酒の匂い。

なんだ‥ただの二日酔いか‥。

「ブフッ」

噛み殺していた笑いが、今になって飛び出していった。