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初めての発表会とか、テストとか、試合の前日とか、面接とか。最近はそんな真新しいことにドキドキ‥だなんてこともある訳がなくて俺は油断していた。昨日のお隣さんの存在が、寝ても覚めても消えてくれはしなかったのだ。つまりは夢の中にいても、ずーっと心臓が稼動しっ放しだったってこと。でもそのおかげが、どこか目覚めはすっきりしていて、かついつも寝起きはのそのそしていた体はシャキッと動いている。なんと恨めしいことだ。そんなに単純だったのか俺は。

授業は大体朝から夕方まで。サークルがなければ、そこそこ時給の良い居酒屋でバイトをしている、そこらの学生となんら変わらない学生ライフを送っていた。いや、これからもきっとそこはきっと変わらない。変わったのは、俺の部屋の隣にめちゃくちゃ可愛い女の子が越してきたことなのだ。

今日は2限から。つまり10時半から授業開始だ。鞄に詰め込んだ授業用の資料を確認して、さあ行くぞと構えた所で一瞬止まる。‥もしかしたらお隣さんと鉢合わせるかもしれない。そう考えたら身嗜みを整えなければと、一度洗面所に直行した。もう何年も気にしていないいつもの髪型が寝癖のように見えるせいで、玄関の向こう側に行くのが躊躇わられるなんて。だが、最早天然級(いや分かっている、頭を2つの枕に挟んで寝ているのがいけないことくらい)のこいつに、今更手の付けようはないのだ。溜息が出る。

「ま〜た来た‥‥」

そうやって髪の毛をいじくり回している所に鳴ったインターホンに、思わず舌打ちを打つ。うるせえなあこっちはそれどころじゃねえんだよ、の意味合いを込めてはいるが、そんなのは扉の向こう側には聞こえていないだろう。コンスタントに来んだよなあ、新聞の営業?みたいなやつ。でもテレビそんな見ねえし、世の情報なんてスマホで事足りる。というわけで、今日も軽くあしらってやろうと勢いよく扉を開け放った。

「あ、おはようございます。朝早くから申し訳ございません‥あの、私昨日隣に越して来ました、苗字と言います」

おい、誰だ。「ま〜た来た」とか面倒臭そうな声出した奴。‥俺か!いやそうなるだろ、だってまさか挨拶回りしてるとか思わねーもんこのご時世。あ、俺だけ?俺だけ挨拶してないの?マジで?

混乱した。昨日見た、隣の部屋の女の子が今目の前にいることに。肩よりもほんの少し長いふわふわのパーマが揺れる度にドキドキした。ぱちっと丸い目にも、ドキドキした。抱えた白い箱はあれか、挨拶周り用の粗品ってやつ。俺と同じくらいか、下手したら下。‥でも、俺より下だと下手したら高校生になって、犯罪なのでは‥?

「あの‥?」
「いや、スミマセン、ご丁寧にありがとうございます、」

ぶわっと両手の平に汗が滲んできた。やべえ、超良い匂いする、やべえ、なんでも可愛く見える眼球にでもすり替わってしまったのかとも思ったが、多分そういうことではない。奥の道を歩く女子大生にはキラキラなんて装備付与はされていない。ちょっと遠いから分かんねえけど、目の前の苗字さんみたいに、キラキラしてない。それは分かる。ちゃんと、分かる。

「これよかったら‥」
「ええ、ありがとうございます」
「ホントつまらない物なんですけど」
「いやそんなこと、‥あ、待って、ちょっとタンマ」

相当テンパっていたことは自覚済みだ。だけど、どうしてもたったこれだけの会話で終わりたくなくて、なにか爪痕を残しておきたかったというしょうもない理由から、頂いたものを受け取って慌てて台所へ急いで戻る。なんか、なんかなかったっけか。そうして出てきたのは、先日澤村が遊びに来た時の土産の菓子箱が1つ。賞味期限は切れて‥いない。セーフだ。既に何個か食べてしまっていたので、残りを全部透明の袋に入れて玄関先へ戻る。そこには少しだけ不安そうな顔をしていた苗字さんが、俺の姿を見るなりほっとしていた。

「ドウゾ」
「‥お菓子?」
「や、こんなものしかなくてホント、」
「あ!」
「えっ」
「これ!私好きなやつだ!偶然ですね、宮城出身なんですか?」
「あ、いや、そうじゃないんですけど‥」
「私も友達が宮城にいて、いつも送ってもらうんです。嬉しいなあ‥でも本当にもらっていいんですか?」
「全然いいですよ」
「ありがとうございます!」

ぱあっと笑って受け取ろうとした彼女の手が一瞬だけ止まる。不思議に思ったけど、何事もなくにこにこ受け取ってくれたので気にすることはなかったのかもしれない。それよりも少しだけ触れた手の滑らかなことよ。爪も綺麗に整えられてるけど、派手なネイルはしていなくて、清潔感のあるピンクだ。繋ぎたいと思ってしまうような動作にまた心臓が跳ねている。

「では、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ。‥あ、黒尾です」
「黒尾さん?」
「そう、鉄朗さんでもいいですけど」
「え〜?」

ふふふと頬っぺたが落ちた顔、ずっと見ていられそうだ。でもそうできなかったのは、解除し忘れていた朝のアラームが突然スマホから響いてきたからである。授業まで残りあと5分。‥これはもう遅刻を免れることはできないだろう。だからと言って欠席扱いは嫌だ。でも苗字さんとのお別れも勿体ない。遅刻、欠席、彼女との暫しのお別れ。そんな3択の中で頭を悩ませていた俺を他所に、彼女は菓子袋を抱えたままお辞儀をすると、爽やかに隣の部屋へと戻っていってしまった。分かる。用事だと思ったんだろうな。優しい人だ。だがアラームは許さない。だがこれは俺の失態だ。アラームに罪はないのである。