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馴れ親しみ始めた部屋から引っ越してきた新しいマンションには、窓の直ぐ側に桜の木があった。きっと花見なんかをするには打って付けの場所で、この近くに友達がいればきっと入り浸りされていたであろうに違いない。そんなことを考えながらぎゅうぎゅうに押し込められた段ボールの山を1つ、また1つと潰しては、玄関の端っこに追いやっている。なんとか今日中には粗方の片付けは終えたいところだが、もう既に疲れてしまっていた。

以前住んでいた所は大好きだった。コンビニも近くて、スーパーも近くて、高卒ながら入社することができた会社も近くて、ついでに駅も近いから不便なんて全くない。そんな以前住んでいたマンションに1つ言えることがあるとすれば、ちょっとだけ古くて、セキュリティが全くない、ということだけだった。だけどそのセキュリティに関しての部分で、私は引っ越しせざるを得なくなってしまったのであるが。

引っ越す前にいた部屋は、建物の構造上どうしても洗濯機が玄関の外にしか置けないせいで、全ての洗濯物を洗う度、私は外に出たり中に入ったりを繰り返すことになっていた。そうしてある日、気付いてしまったのだ。お気に入りのブラと対になっているパンツがなくなっていることに。その日は少し買い物に出ようと思って、すぐ帰ってくるからと洗濯機をかけっ放しにしたまま家を出ていた、それがいけなかったのだろう。戻ってきた時には、中途半端な状態で洗濯機が止まっていた。おかしいなともう一度スタートボタンを押して、後から干そうとしたところで気付いたのだ。

考えないようにしていた、「誰かに盗られたのかもしれない」ということ。いやでももしかしたら、私が部屋の中で落としたのかもしれない。‥でも、脱衣所でしか脱がないのに?という疑問は頭を振って吹き飛ばすしかなくて。そうして少しずつ増えていった。私がいる時でさえもいつの間にか洗濯機が途中停止していて「中身が少し減っている」ということに。

そんなことが続いたある日、深夜に突然玄関のノブを回すような音が静かな部屋に響いた。流石に玄関には鍵を掛けて、内側のチェーンもしっかりとつけていたけれど、‥だけど、ガチャガチャと鳴る音は一向に止むことがなくて、布団の中で固まって戦慄していた。もしかしたら隣の部屋の人が自分の部屋だと間違えているのかもしれないとか、色んなことを考えていたけれど、小さく聞こえた低い舌打ちの音に、ぞわぞわと全身に這い上がってきた恐怖。暫くしてやっと音がなくなって、たったそれだけのことで妙な安心に大きく息を吐いたら、ばきんと何かが折れる、ひどく鈍い音がしたのだ。チェーンの金属音が何度も引っ張られるような、ガタガタと何度もドアを開ける軋み。心臓が凍ったみたいな緊張に包まれて、チェーンがあって本当によかったと思いながらスマホに手を伸ばし、110番にコール。

忘れもしないあの日の悪夢から逃げるように、私はすぐに会社から距離の離れたここへ引っ越してきたのだ。

『片付け終わった?』
「うん、殆ど終わってる」
『ごめんね、仕事入らなきゃ片付けも手伝ったのに』
「トラック運転してくれただけでも有難いのにそんなことさせられないって」
『そう?まあなんにせよなんかあったらすぐ言いなよね。今この時だって心配なんだから』
「分かってるってば。ほんと、大丈夫」
『ならいいけど‥あ、ちゃんと着てよね!私の傑作春一番Tシャツ!』
「うん。ありがと」

真っ白な壁は何故か不思議と安心できる、魔法の色だ。引っ越しを手伝ってくれた友人との電話を終えて、少し肌寒い外の空気を震わせるように息を吐いた。デザインや被服を専門とする学校に通う彼女が作った春一番Tシャツは、暗闇でもよく目立つ。そういう風に作ったらしい。一応私の為、だとか。

‥ここでは、何もないといい。一応都会に近い所なので、基本的に周りは明るくて、すぐ側には大通りもある。だからなにも起こらないっていう保障なんてないんだけど、それでも少しは安心できた。あとはここに住む人達と仲良く出来るか否か、それだけだ。

明日は休み。だから、なるだけどんな人が住んでるかもチェックしておきたいという意味合いも込めて、挨拶周りに回るつもりだ。特にお隣の人とは合うことも多いかもしれないし。「そんなことしなくていいんじゃない?」って先程電話していた友達に言われたけれど、素性が分からないのは逆に怖い。というわけで、簡単な粗品も既に購入済みなのだ。逆に言えば、もう行くしかないということである。

「お風呂入る前に寝そう‥」

数分ベランダでぼーっとした後、その言葉通りにシーツやら枕カバーやらをまるっと取り替えたばかりのベッドへダイブした。別にいいや。明日もあるし、挨拶周りする前にお風呂入ればそれで。アラームは9時にセットしたし、寝過ごすことはないだろうと呑気にそんなことを考えながら、アイラインを引いたままの目をゆっくり閉じる。スマホの充電があと2パーセントしかないことには気付かないまま。