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「本当にすみませんでした!」
「いえいえ」
「しかも‥あの‥サンドイッチまで‥」
「いえいえ」

ほのかに香る良い匂いは、苗字さんのお風呂上がりの匂いだ。言葉にできない程の良い匂いである。‥って、ちょっと変態くさいか。小さな口を開けて俺お手製の大きなサンドイッチを頬張る仕草が、まるでひまわりの種を目一杯詰め込んだハムスターみたいでたまらなく可愛いのだ。でっかい矢で刺されたみたいな衝撃に耐えているところだが、そんなことを彼女が知る由もないだろう。

何故こんなことになったか、なんていうのは色々と理由があった。まず一つは、頭からしっかりと汚れてしまったまま苗字さんが台所の片付けをしても意味がないと思ったのだ。掃除をしても、あの状態では掃除をした側から汚れていくだろう。そんなのは二度手間だから、先にお風呂でも入ってきたら?と俺が促した。超渋々だったけども。
もう一つは、そんな彼女がせっかくお風呂から上がって綺麗になった状態で出てきて、また汚れるなんて大変だよなと掃除を俺が請け負うことにしたのだ。めちゃめちゃ却下されたけど、強行突破で俺が掃除した。泣きそうな顔でお風呂場から飛んで出てきた時には既に終わっていたから、彼女がすることはなにもなかった。
そうして最後に一つ、「お礼をする」と言い出した彼女の腹が勢いよく鳴ったのだ。その瞬間全て終わったような顔をして床に崩れ落ちたのが漫画みたいで腹を抱えて笑ってしまった。きっとなにも食べてなかったのだろうと、俺は自分の部屋に戻りサンドイッチを持ってきて、やっと今に至る訳である。

「苗字さんって面白いですネ」
「からかってますよね」
「いやあ、ホントに。一緒にいて飽きなさそう。ぶは」
「もう、酷い‥!‥いやでもなにも言えないですね‥何から何まで‥本当に‥サンドイッチ美味しいです‥」
「そりゃよかった」

少しぶすっとしたままサンドイッチに齧り付いて、じろっと視線を向けたかと思ったらサンドイッチのせいか少しほにゃんと頬っぺたが落ちる。どうやらなにをしても可愛い生き物らしい。

この機会に、ということで、俺は苗字なまえさんという人物を知ろうと話しを持ちかけてみる。どんな人なのか、今なにをしている人なのか、学生なのか、社会人なのか。そうして分かったことは、俺と同じ歳で(四月生まれなのでもう二十歳らしい)、だけど学生ではなく既に働いている社会人だそうだ。デザインの会社に勤めているのだとか。成る程、なんとなく雰囲気が大人っぽい感じなのはもう働いているからなのかとか思ったり思わなかったりするけれど、小柄なせいか歳下なのかと。‥でも、まさか同じ歳だったとは。

「黒尾さんが、同じ歳‥?」
「なんですかその怪しいものを見る目は」
「いや、見えませんよ。社会人三年くらいは経ってますよ、その風貌」
「それ喜んでいいんです?悲しむべきなんです?」
「お任せしますけど」
「ぶは、返し雑か」

見た目に反して結構ドライなところもあるようだ。一頻り笑って彼女の様子を目に焼き付ける。ほんと、一目惚れフィルターってのは恐ろしい。サンドイッチを食べた後のふにゃふにゃした顔も、「御馳走でした」と手を合わせているところも、なんならぷはーって酒でも飲んだ後みたいなおっさんみたいな仕草も、全部可愛くて仕方ない。

「黒尾さんは今日授業ないんですか?」
「ないです。オヤスミ。てか、もう敬語よくない?」
「え?いいんですか?」
「だって俺らタメよ?変でしょ」
「言ってる側から敬語抜くのやめてください」
「いーじゃん。もうひとつ屋根の下の関係なんだから」
「誤解受けますって。ダメですよー簡単にそんなこと言ったら!」

ずびし!と指された人差し指に、俺はふと思い出した。そうだった、苗字さん彼氏いたんだった、ということに。急に悪いことをしている気分になって、思わず苦笑いをすると立ち上がる。いつまでもここにいたら、苗字さんにも彼氏さんにも良くない思いをさせてしまうなと。

「そろそろお暇しようかな、俺」
「あ、玄関までお送りします!」
「いいよそんな、」
「あと、ちゃんとお礼したいので、‥うーん、あ、連絡先教えてください!急に部屋の扉叩きたくないので!」
「え」

そんなことしちゃっていいの。‥いいの?彼氏さんになんにも言われない?だけど、俺が苗字さんに彼氏がいることを知ってるなんて、彼女が知っている訳もないのだから言う必要もないだろうと自分のスマホを開く。

‥俺、結構ずるいやつだよなと、苗字さんがスマホを操作している指を見つめながら、ちょっとだけ後悔した。