嫌な予感。
目に見えたそれを見てしまって、そしてその嫌な予感を取っ払おうと思って行動に移そうとしても、仕事が絡むと中々そうはいかなかった。スケジュールに休みが見当たらないのが原因ではあるし、1個でも何処かに穴を空けてしまうと色んな作業が遅れてしまうので、できればオフの日を狙いたい。そんな思いから結局は仕事に出向いてしまうのだ。この間は飛雄君が泊まりにきたので、彼を優先した。そんなのは私の中では当然のこと。次の日からは通常通り朝早くから出て、夜遅くに帰ってくる。その毎日の繰り返しだ。

「‥なまえちゃん最近マスク変えたな。良いやつじゃん」
「あ、ハイ。耳痛いの嫌だし、これ息苦しくないんですよ」
「知ってる知ってる」
「なんだ、知ってるんですか」

侑と治から、少し遅れて事務所に到着するという内容のメールをもらって、ギターの弦を張り替えながら永田さんと喋っていたら、ぼそぼそと小さな声が聞こえてきた。いつもと違う低くて唸るようなそれはなんだか私を不安にさせるような音で、少し気になってしまう。びいんと弾いた弦の音とチューナーの音を合わせ終わると、そういえば永田さんと付き合いの長い女の人がこの間言ってたことをふと、思い出した。

「‥永田君、ホントにちゃんと吹っ切れたんだったら、いいけど」

あれ、なんの話しだったんだろう。昔何かあったんだろうか。彼女の話ぶりからして、あまり聞いてはいけないような内容な気がするから、どうにも聞きにくい。だけど、中途半端に話の端に触ってしまえば体の内側がもやもやっとするのも事実である。

「結構前にマネジメントしてたシンガーソングライターが今なまえちゃんが使ってるのと同じマスクずっとしてたんだよ」
「え、そうなんですか?永田さん、私達の前にもアーティストのマネージャーやってたんですね」
「実は閃光で4つ目なんだよな。まあ、‥お前らのバンド受け持つ間までがかなり空いてんだけど」
「永田さんってマネージャーのイメージじゃないですもんね」
「なんだよそりゃ。俺はそれをどういう意味で捉えりゃいーんだ?」

どっちかっていうと、もっと上の立ち位置にいるイメージなんで。そう言ったら、そんなに稼いでねーわって頭をぽこんと叩かれてしまった。申し訳ないけど、絶対そんなことない。だけど、今はとりあえず口を噤んでおいた。

「あの、‥じゃあ前の人っていうのは、もう別の事務所に移籍になったんですか?」

単純に疑問だった。だって、私達の前に誰かをマネージメントしてたということは、何かがあって離れたということで。嫌なことでもあったのかというのは、その時のことを何も知らない私でさえなんとなく聞いていても分かる。なんとなく悲しそうだってことは、永田さんはその人のことを手放したくなかったのかも。‥も、もしかして好きだったとか?え‥いやそれって禁断の恋なのでは?

「移籍、‥の方が随分マシだったかもな」
「どういう意味です?」
「まだ売り出し中の若い子で。すげー才能あったんだ、丁度なまえちゃんみたいな感じ」
「あ、ありがとうございます‥?」
「なんで疑問形なんだよ。ちゃんと褒めてるわ」

微かに笑ってはいたが、やはりあんまり聞かれたくないことだということは明白だった。いや、やっぱり聞くのはやめておこう。そう思っていた所で、奥のエレベーターからタイミング良く現れた双子に、ほっとして息を吐く。やっぱり嫌なことは言わなくても大丈夫です。そのつもりで立ち上がったのに、それを制そうとする大きな掌が宙に浮いた。

「?」
「あ‥いや悪い。なんつーか‥ちょっと暗めの話しになるんだ」
「や、言いたくないなら全然聞きませんけど」
「なまえちゃんにはそうなってほしくない≠ゥら、タイミングみてちゃんと話す」
「どういう意味ですか、」
「‥もう歌うことはないんだよ、アイツは」

クリアになったみたいに、耳に残った言葉だった。「すまん!」ってへこへこ頭を下げてくる侑に、治が「コイツが悪いやで」って言う声だけが聞こえてくる。どんな表情で言っているのかは分からないけど、多分そろそろ喧嘩になる頃だろう。そんな感じがする。‥それよりも、

歌うことはない、って、なに?

喉の奥が熱い。気持ち悪くて、ぐっと吐きそうになるのを耐える。頭の端をちらつくのは、この間の掌に残った鮮明な映像で。

「なまえ?」
「ご、ごめ、なんでもない。時間ないしミーティングしよ」

よいしょ、と静かに立ち上がった永田さんの声を聞くのが怖くなってくる。なにがあったの、昔、その人に。その、シンガーソングライターだった人に。震えた指が、ぐっと持ち上げたギターの弦を大きく弾いて鳴り響いた不協和音。重苦しい何かが心臓に少しずつ積み重なっていくような、気持ちの良くない気分だった。

2019.01.31