忘れちゃいけない名前

「外出許可って…もちろん翡翠さんの体調はだいぶよくなってますから申請はすぐ通ると思いますけど…今日、大雨ですよ?」
「それは見れば分かります」

ウミが入院してから幾日か過ぎた病院のロビーでは、ウミを相手に1人の看護婦が窓の外を差して苦笑いを浮かべていた。久しぶりにザーザーと凄い音を立てて降り注ぐ雨は、その光景を見た誰しもが外へは出掛けたくないと思うはずだ。しかしそれを分かっていても、彼女は外出許可をもらいたいと言う。まあそれならばと渋々頷いた看護婦は「暫くお待ちくださいね」と言いながら席を立つと、部屋の奥へと消えていった。

雨、か。窓際の塀に隠れながらウミの行動を見守りつつ、ぼたぼたと屋根から滴り落ちてくる雨を視界に入れて俺は瞼を閉ざした。ウミは"あの日"から雨が降ると、無意識にか意識的にか必ず足を運ぶ場所があった。それを今更ながら思い出し忘れてなかったんだなと深く息を吐く。

彼女の姓には秘密がある。
彼女を守る為の秘密。

四神獣の中でも、朱雀という神獣はその血に大きな治癒力を秘めている。それを欲しいと思う輩なんて昔から幾らでもいた。だからこそウミは本来の一族の性 -- "焔" ( ほむら )を隠して、"翡翠"という性を名乗っている。もちろん翡翠という性は元々存在しないウミ本人が作った性。どんな理由があったのかどうやって作り出したのか、それは話すと長くなる。焔と言う性はどの里でも有名だ。だからこそ翡翠を名乗っているというのに、ウミが焔一族だと知る謎の輩がいるということを聞かされてから、俺はほんの少し嫌な予感を感じていた。

「お待たせしました、すぐ許可取れましたよ。夜の8時までに病院に戻ってきてくださいね」
「はい」
「…って、翡翠さん傘、傘!」
「いえ別にいりませ「今度は風邪引いて入院するつもりですか?」…すみません」

看護婦の言葉に苦い顔を返し病院の傘をしっかり持たされたウミは、そのままロビーから外に出て行った。残念ながら俺には傘なんていう雨を退けられる道具なんて持っていない。ま、とりあえず行きますかと俺はその場から外へと繰り出すと、一瞬でずぶ濡れになっていく体。しょうがないけど冷たいな、なんて溜息をつきながら俺は彼女の向かう先へとついていった。








「…護衛なのは分かっていますけど後をつけられるのは不快極まりないですね。カカシ先輩」

じゃくじゃくと砂と雨を含んだ足音が響く中、見えてきた小さな墓を目の前にしてウミがぽつりと言葉を零した。だからそんなこと言われても護衛なんだから仕方ないでしょうがと思いながら無言を貫いて木の上で雨に打たれていると、何を思ったのかウミは近くの小さな濡れ岩に座り込んだ。

「…雨は好きになれそうにありません。血を浴びた錯覚を起こしてしまいそうです」

独り言のようにぽつりと零した言葉に俺も思わず胸がズキリと痛む。血を浴びた錯覚…分からないでもないかもしれない。敵と対峙し、任務遂行の為に、殺される前に殺す為に、自身の体に色んな血を浴びた。それは俺もウミも同じだった。

「雨が降ると会える気がしているのに…やっぱり会えないですね。……当たり前か」

今ウミが何を思い、目の前の墓に眠る人物に何を語りたいのか俺にはわからない。ウミとその人物が共に過ごした時間は短いものだったが、お互いがお互いを親友だと思っていた程に心は繋がっていた。間違いなく俺なんか入る隙間もなかっただろう。人と関わるのが苦手なウミが、あの時ほど心を開いたことはなかっただろう。

「カカシ先輩は会うの久しぶりですよね」
「…」
「護衛関係なく自分から話しかけることがある癖に今日は無視ですか」
「……はぁ」

棘がある言い方に頭を掻きながら溜息を吐くと、ヤレヤレとばかりに木の上から地面へと降り立った。背を向けたまま岩の上に座り込んで傘をさすウミに近付くと、背中を合わせるように岩の上へと腰を下ろす。

「俺はそんなに仲良くなかったでしょ」
「先輩背中冷たいです」
「人の話し聞いてる?」

淡々とした口調で俺の言い分をさらっと流したウミへちらりと目を向けると傘を持ったまま少し震えていた。当たり前でしょ、病院着に軽く上を羽織っただけの格好じゃまだ寒いに決まってる。かと言って俺も暖かい上着なんて持ち合わせがない、むしろあってもずぶ濡れだ。

「…ああ、気にしないでください、先輩みたいにずぶ濡れではないので」
「そうじゃなくても女の子が体冷やすのはよくないよ」
「…翡翠も……同じこと言ってました」
「翡翠も女の子だけどね」

ウミの親友、翡翠。ウミが自分の隠し名に選んだ性の由来。木の葉の里の外れに住んでいた1人暮らし女の子で、ウミと同じ歳。

そして、程なくして翡翠は死んだ。翡翠はウミが殺した。いや、翡翠がウミに殺させるよう仕向けた。それは、いつかの俺がリンにしたことと同じだった。

2014.07.04

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