沙樹と臨也

沙樹にとって臨也は世界のすべてと言っても過言ではない存在であった。臨也が存在することによって沙樹の生は正常に機能していた。それは沙樹だけでなく、全ての信者に言えることであった。彼らにとってはそれが当たり前のことであり、それ以外の人々は全く別の種に属しているようだと思っていた。
自らの中にあるそれが揺らぐことなどあり得ない。沙樹はそう信じていた。

そんな沙樹の前に現れた少年は、名前を正臣といった。自分と同年代の彼に対して、沙樹はなかなかプラスの感情を抱いていた。それは勿論臨也に言われたからであり、それ以外の理由などありはしなかった。そのはずだった。
沙樹自身も理解が及ばないスピードで二人の距離は縮まっていった。それ自体はとてもめでたいことであったが、沙樹は距離が縮むにつれて、段々と自分で思考するということを覚え始めていた。と同時に、今まで全てを臨也に頼りきっていた事実がどんどん明確になってゆく。それは素晴らしいことのはずなのに、何も心配せずともよいはずなのに、沙樹の中にはよく分からない黒い渦のようなものが、じわじわと広がっていっていた。
その渦が沙樹自身をも飲み込むくらい大きくなったのは、多分臨也からこんなお願いをされた時だったように思える。

「今から言う通りに行動するんだよ」

臨也の唇が紡ぐ言葉は、沙樹の脳にダイレクトに届く。沙樹が態々命令せずとも、脳が勝手に理解するようになっていた。沙樹自身それに何の疑問も持っていなかった頃は、問題なかった。しかしその時、沙樹の中には黒い渦が確かに存在していたのだ。
目を閉じればいつも脳裏にあった黒髪ではなく、彼の金髪が浮かぶ。本当にこのままでいいのだろうか。こんなことをして彼は喜ぶのだろうか。考えても考えても、まだまだ未発達な脳では満足のいく答えを叩き出すことは出来なかった。
結局のところ何も解決出来ないまま、沙樹は臨也の言葉を実行に移した。それにより待っていたのは、おかしくなるんじゃないかというくらいの苦痛。痛くて苦しくて、自分の身体が自分のものではないようで。それでも暴力を振るわれて負った怪我なんて、大したことじゃあなかったときちんと分かったのは、いつもと違う正臣の声を聞いてから。あの日から沙樹と正臣を繋いでいた糸は、脆くも儚くぷつりと途切れてしまった。いや、少し違う。繋がってはいた。繋がってはいたけれど、今までのような、沙樹の心をあったかくしてくれる笑顔を見せてくれることはなくなってしまった。分かっていたのに。こうなってしまうことくらい、分かっていたのに。それでも沙樹は臨也の教えに背くことは出来なかったのだ。なぜなら、今までは臨也の言う通りにしてさえいれば、何一つ傷つくことなく生きて行くことが出来ていたから。
(だからきっと今度も。臨也さんが言うなら、きっと)

ついに沙樹は黒い渦の中に飲み込まれた。臨也の言う通りに行動しているだけの自分は、一体誰なのだろうか。このままで本当に幸せになれるのだろうか。疑問が、頭の中を縦横無尽に駆け巡る。今まで自分がどれだけ考えることを放棄していたのか、沙樹は痛いほど実感した。
そうして、沙樹はその日から、ただただ臨也を盲信するのを止めた。臨也のことは尊敬しているし、頼りに思っている。それでもそれだけでは駄目なのだ。自分も思考することを覚えなくては。たまには失敗したっていい。彼がもう一度、私の隣で笑ってくれる日が来たら、もうそれでいい。沙樹は次第にそのように思うようになっていった。

そんな沙樹に大きな転機が訪れる。臨也から計画の一部を聞かされた時、沙樹の中には小さな芽が芽吹いた。また同じことを繰り返してもいいのだろうか。正臣のために自分が出来ることはないのだろうか。沙樹は必死に考えた。答えなどというものは初めから提示されていたのに、それでも沙樹は葛藤の中をさ迷いながら考えて、考えて、考えて……。沙樹の中で一つの結論が出た頃には、もう時間は殆ど残されてはいなかった。ごめんなさい、ごめんなさい臨也さん。心中でずっとそう呟きながら、沙樹は使い慣れていない足で病院の廊下を走った。そうして伸ばした右手の先にあったのは、公衆電話とー…。

*

正臣の入院している病室で、彼の言葉を聞きながら、沙樹は一人嬉しさと罪悪感の間で雁字搦めになっていた。

「バカだね、正臣は本当にバカだよ……」

そう口に出すだけで、涙が溢れてしまいそうだった。つん、と鼻の奥がしみるような感覚。
バカなのは、正臣じゃなくて私だ。嘘つきで、人に頼らなきゃ生きていけない上に、大切な人を守ることも出来ない。意気地無しで、子供な私だ。
ぐるぐるぐる。自己嫌悪に苛まれる沙樹を前にして、正臣は謝罪を口にした後、沙樹が一番求めていたであろう言葉を吐いた。もうそれだけで、沙樹にとっては十分だった。正臣が欠点のことを口にしてくれたのが嬉しかった。正臣の欠点なんかとは比べ物にならないくらい、欠点だらけの私なのに、そんな私を好きだと言ってくれる正臣が大好きだと、沙樹は思った。欠点は直せばよいのだと正臣の行動が教えてくれたのだ。だから自分の欠点も正臣と一緒ならきっと直していける。沙樹の中でそれは確かな自信となって、ようやく沙樹は心から笑うことが出来たのである。

それから暫くしたある日、正臣は沙樹と暮らす部屋を留守にしていた。沙樹は一人ベッドで毛布にくるまりながら、幼い日の夢を見ていた。
両親に真っ直ぐな愛を与えられずに一人きりになった自分を、誰かが迎えに来てくれる夢。沙樹の中に焼き付いて離れなかったはずの人。しかし沙樹は夢の中で、そのうつくしい顔が誰のものなのか思い出すことが出来なかった。
暗い部屋で一人目覚めた沙樹は、あの日の臨也を思い浮かべながらちいさく泣いた。彼と出会ったあの日。それが幼い沙樹の、最初で最後の初恋であった。

―――
タイトル→ジューン
美香ちゃんの次に沙樹ちゃんが好きです
(100831)

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