静雄と臨也
来神時代

クーラーのタイマーが切れたせいで、蒸し暑い室内でベッドに横たわった俺は薄い掛布団を両足で挟みながら、ずりずりと動く。時間は深夜、勿論外は真っ暗、室内の明かりも消してある。流石に目が馴れて、月明かりに照らされた部屋が浮かび上がって見えるけれど、それだけだ。天井を近くに感じて手をゆっくりと伸ばしてみても、当然のことだが指先が触れることはなかった。此だけ静かだと、道路を走る車の音がうっすらと聞こえる。それから、あれは何だろう。ああ、ビーサンがコンクリートを擦る音だ。夏の夜中に散歩だなんて、良い趣味をお持ちだなあ。まあ俺は全くやる気がしないけど。
ぼうっとしながら何もせずに、ただ暗い部屋で天井を見上げていた。そんなことをして無駄に時間を過ごす位なら、さっさと眠ればいいのに、と我ながら思う。しかし目を閉じたところで、一向に眠気は訪れなかった。別に不眠症だとかそういうわけじゃあないのに、一ヶ月に数回、そういう日があるのだ。そんな日は眠るのを諦めてこうしてぼうっと過ごすのが賢い方法だと学んでからは、ずっとそうしている。最初のころはどうにか寝ようとしてみたものだったけど、ここまで眠くないともはや清々しい。だからといって、何か行動を起こす気にはならない。不思議なもんだ。
そういうわけで、クーラーを付けるためにリモコンを探すのも面倒で、蒸し暑いくせに我慢して気持ちの悪いべたついたTシャツを着たままなのだ。着替えるのはより面倒だし。

暑さに耐え切れなくなってきたので、ごろりと転がり上下逆さまになってみる。これが案外ひんやりしていて気持ちがいい。枕がないから寝るのは一苦労だけど、元々眠る気はないから我慢我慢。逆さまになった視界と共に、俺は結局天井を見つめる作業に帰着した。
耳には未だビーサンの音が届いていた。意識して聞いてみると、どうやら大分近いみたいだ。ざり、ぺた。音は丁度俺の部屋の窓下で、止まった。
暫くして、こつん、と窓ガラスに小石が一つ、ぶつかった。どう見ても意図的にぶつけられたそれは、嫌がらせか、それとも。どちらにせよ、窓の下の誰かさんは俺に用があるらしい。それを理解したからといって、俺がそれに応じなくてはならないという決まりはないし、面倒なので起き上がるつもりもない。まだ深夜だぞ、迷惑考えろと窓下の名前も知らないそいつに心の中で呟いた。

しかしこの選択は結局のところ意味を為さなかった。こつん、ともう一発石が飛んできた音を聞いて、俺は渋々起き上がった。音の主は俺が呼びかけに応じるまでしぶとくこの行為を続けるつもりらしかったからだ。小さくため息をつきながら覗いた窓の向こうに見えたのは、暗闇の中に栄える見知った金髪だった。え、なんでなんで、意味がわからない。どうして、いるんだよ。俺の宿敵として有名なシズちゃんこと平和島静雄の姿がそこにはあった。だらっとしたTシャツにジャージという、いかにもだらしない格好のシズちゃんは此方を見上げていた。目が、あった。そのまま窓を指差して、口をぱくぱくさせている。何かを言っている?暗闇の中、目を凝らして見てみると、どうやら「あ・け・ろ」と言っているようである。そのまま俺は窓を開け、頭だけ乗りだして下を見下ろした。

「シズちゃんてば、こんな夜中になにしてんの」
「コンビニ」
「へえ。夜食?」
「腹減って目覚めて、食いモン買いにきた」

そう言うシズちゃんの手には、確かにコンビニのビニール袋があった。それを揺らしながら、俺に向かって手招きをした。その意味を図りかねている俺をの耳に届いたのは、「ちょっとこい」。来い?降りて来いと?深夜に?アハハ笑える。

「シズちゃん常識で考えなよ。今深夜、」
「早くしろ」
「……うわ、傍若無人だなあ」

苦笑いを溢しながらもゆっくりと立ち上がってしまう俺は、大分ヤバいところまできているらしい。我ながら馬鹿みたいだ。
ぎしり、とベッドが音をたてた。出来るだけ静かにドアを開け、そのまま一階へと降りる。ビーサンを爪先に引っ掛けたところで、自らの格好がシズちゃんと大して変わらないだらしなさだと気付いたが、見なかったふりをした。

「おう」
「……なんなのさ、ほんと」
「ちょっと付き合え」
「は?なにに、どこに?」
「散歩」
「……ちょっと待って、シズちゃんまさかそんなくだらないことで呼んだんじゃ」
「ぐだぐだうっせぇな、いくぞ」

問答無用。シズちゃんは俺の意見なんて始めから聞くつもりはないようで、俺はため息を一つつくと歩き出した背中を追いかけた。

「ねえシズちゃんってば」

静かな夏の暗闇に俺の声が響く。決して大きな声ではないのに、静けさがそれを引き立てた。室内の蒸し暑さはどこへやら。肌を撫でる風が冷たくて気持ちいい。歩きながら瞼を閉じてみると、さやさやと木の葉がそよぐ音が聞こえる。

「黙ってろよ」

風の音、葉の擦れる音、遠くでクラクションを鳴らす車の音。その静かで暗い世界に響くシズちゃんの声。まるで俺たち二人きりが世界の端っこに取り残されたみたいだ。俺達が歩いている道に面した家には就寝中の人々が存在していて、それは当たり前のことで。なのに、柄にもなくそんなことを思ったのは、今日俺が眠っていないからなのかもしれない。
視線を空中にさ迷わせたままそんなことを脳内で考えていると、目の前にスチール缶が差し出された。

「やる」
「え、なに、ごみ?」

俺の返答で不快になったらしいシズちゃんは、眉間に皺を寄せながら「ちげえよ」と缶を俺に押し付けた。受け取ったそれはひんやり冷たくて、手のひらに水滴を落とす。手に収まった重量からして、中身はきちんと入っているらしい。

「……あ、りがと?」
「ん」

プルトップを引き上げて、開いた穴に口をつける。ごくり。液体を飲み込む音が耳の奥で響く。じわり、深みのあるコーヒーの味が口内に広がった。渇いていた喉が潤されるのを感じ、自然と口角が上がる。缶に口をつけたままシズちゃんの方へ目をやれば、彼も同じものを飲んでいた。喉が上下する回数が俺より多いところを見ると、もう飲み終わりそうな勢いだ。そんなに喉が渇いていたなら、俺に分けてなんかやらずに自分一人で飲めばよかったというのに。大体、今日のシズちゃんは全体的におかしい。いや、シズちゃんはいつもおかしいけど、そういうおかしさじゃなくって。態々夜中に俺を呼び出して、一緒に散歩だなんて、双方にメリットのないことを言い出すし。その上何か貸しがあるわけでもないのに、見返りも求めないで俺に奢ってくれるし。これがおかしい以外の何であるというのだろう。

「シズちゃんさ、どうかしたの?」
「別に、どうもしてねえよ」

シズちゃんは既に飲み終えたらしい空き缶を近くの自販機付属のゴミ箱に投げ捨てながらそう言った。がこん、という音がして綺麗に穴に収まった。シズちゃんの言葉に苛立ちは含まれておらず、おかしいくらいに落ち着いていた。そうして訪れた沈黙は、今が深夜であることを引き立たせた。

「なあ」

どちらも言葉を発しないまま、ただ歩くだけの時間が数秒続き、それからようやくシズちゃんが口を開いた。

「なに?」

飲み終えたコーヒーの空き缶を捨てようとして、先程の自販機を通り過ぎてしまったことに気付く。他にゴミ箱はないかと視線だけで探しながら答えた。シズちゃんに背を向けて辺りを見回していた俺は、俺の背後でシズちゃんがどんな表情をしていたのかなんて、知る筈もなかった。だからこそ、振り返った瞬間に聞こえたたった三文字が、現実とは到底思えなかったのだ。

「すきだ」

紛れもないシズちゃんの声で紡がれたそれを俺の脳が理解するまでには、少なくとも10秒は必要だった。いいや、10秒経ったって理解には至らなかった。すきという単語には、もしかして俺が今まで知らないで生きてきた意味があるのだろうかと何度も何度も脳内を駆けずり回らせたが、結果は変わらなかった。何も言葉を発せないまま時間だけが経過してゆく。目の前のシズちゃんは、俺が何も言えないでいるのをじいっと眺めていたが、手にしていたビニール袋を俺に渡すと、背中を向けて歩いて行った。両手をポケットに突っ込んで歩いてゆく丸まった背中が、いつもよりも一回り小さく見えた。

シズちゃんの背中が見えなくなって、ようやく我を取り戻した俺は、一気に頬が上気するのを感じた。なんだ、なんだこれ、あつい、あつい。耐えきれなくなって先程シズちゃんに渡されたビニール袋に手を突っ込んで、指先に触れた冷たいペットボトルを引っ張り出す。それを頬に押し付けると、ひんやりとした感覚に少しずつ火照りが収まってゆく。ようやく落ち着いた俺がぽつり、と溢した言葉は至極単純なものだった。

「何なんだよ、一体……」

もう一度ベッドに戻って目を閉じても、いつもなら襲ってくる眠気が現れることはなかった。コーヒーを飲んだせいに違いない。自らにそう言い聞かせて、俺は再び火照りはじめた頬を枕に埋めた。

―――
タイトル→ラダ
(100710)

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