現代ぱろで幼少銀コト

ゆらゆらと揺れる水の中を様々な種類の魚が泳いでゆく。見渡す限りの青。まるで本当に海に飲み込まれたみたいだ、と思った。俺のこころを掴んで離さないそれは、所謂水族館のメインの水槽というやつだった。名前も知らない小魚から、絵本や図鑑で見たことのあるマンタやヒラメ。サメなんかも泳いでいる。どうしてサメと小魚が同じ水槽にいて大丈夫なのかという疑問はとうに解決している。

もう何度この水槽の前に立っただろう。自分でも数えているわけではないから分からないが、少なくとも飼育員らに記憶されている常連であることは確かだ。
ただ、こんな風に知識を蓄えたところでこれが何の役にも立たないということは分かっていた。この水槽の前に立つのが何度目かは知らずとも、誰かと此処へ来たのが何度あったかは覚えている。

一度だけ、初めて此処を訪れたとき。俺を此処へ連れてきてくれたのは父さんだった。父さんは沢山の部下を従える会社の社長で、日々忙しく構ってもらえることは少なかった。そんな中久しぶりの休みだから、と此処へ連れてきてくれた父さんには感謝している。あれから誰かと此処を訪れたことはないが、別にいい。一人でも何ら問題はないのだから。
俺はこの場所がすきだ。海に包まれるようなこの感覚がすきだ。深い青に吸い込まれるような、深みへ落ちて行くような。この水槽には、俺を魅了して止まない、そんな不思議な魅力があった。

そうして水槽の前に立ち尽くすこと数十分。館内に響いた5時を報せるチャイムに、意識を引き戻される。これが鳴ったら子供は帰るのが約束だ。まだ離れたくはなかったが、もう帰らなくては、と息を吐いた瞬間。
くい、と後ろから服の裾を引っ張られた。何事かと後ろを振り返れば、同年代くらいの泣きそうな少女がひとり。視線が噛み合っても、彼女はただ下を向いているだけで何も言おうとはしない。それでも、裾を掴む手は離さなかった。

「…どうした」

このままでは埒があかないと思い、ぶっきらぼうではあるがそう問いかけてみると、びくりと小さく肩を震わせてから、こう呟いた。

「おかあさん、どこ…?」

ああ迷子か。理解は早かった。確かにこの水族館は広いし、初めて訪れたのならば迷うこともあり得るだろう。正直面倒事は好きではない。放っておいても良かったのだが、不安そうな瞳で此方を見上げる少女の指が俺の裾から離れないから。そう、仕方なく。

「……お前、なまえは」
「コト、ネ」
「じゃあホラ、ついてこい」
「う、ん…っ!」

ぎゅう、と俺の手のひらを握ったコトネの手は、冷たい俺の手とは違って、あたたかかった。じわりじわりと伝わる熱に、自らの冷たさが吸いとられるような錯覚に陥った。

そんな思考を振り払い、係の女性の側へと向かう。俺の姿を視界に入れた彼女は、慣れているかのように微笑んで口を開いた。

「シルバーくんどうかした?そろそろお家に帰る時間だけど」
「……こいつ、迷子」
「あら、そうなの?それはありがとうね。あとは任せてもらって大丈夫よ。えっとお名前は?」
「………、コトネ」
「じゃあ行こうか、コトネちゃん。あっちの休憩室で待ってよう。シルバーくん、ほんとに助かったわ」
「……それじゃ俺帰ります」
「ええ、それじゃあね」

二人に背を向けて一歩踏み出せば、先程と同じような感覚。服の裾にかかる力。何が起きたのかは何となく察しがついた。ちらりと背後へ視線をやれば、先程と同じ瞳でこちらを見つめたまま、指に力を込めるコトネ。そのまま俯いてしまったが、指先は震えていた。
………はあ。ため息を一つつくと、またしても肩がびくりと揺れる。指先が緩まったので、くるりと向かい合う。そうしてぽん、と頭を撫でてやれば、コトネは一瞬目を見開いて、それから瞳に涙をいっぱい溢れさせた。
げ。こういうのは、苦手だ。こういうときどうしたらいいのか、俺にはさっぱり検討がつかない。助けを求めてコトネの背後に立っている女性館員に視線を向けても、にっこり微笑まれるだけだった。なんだこれ、俺にどうしろって、。

「じゃあ私館内放送入れてくるから、コトネちゃんはシルバーくんとここで待っててもらってもいいかな?」
「、え」
「う、ん」

この状況に俺を置いていくなんて、どういう感性してるんだと突っ込んでやりたかったが、コトネが返事をしてしまったせいでそれも叶わなくなった。女性はこちらに向かってウィンクを一つすると、放送を入れるため背を向けて歩いて行った。
残された俺にはどうしていいやら分からず、ただコトネが泣き止むのを隣でぼーっと待っていた。

そのとき、目の前に広がる広大な海の中を、サメが駆け抜けた。おおきい。
すうーっと水の中を泳ぐそれは、鋭い牙を称え、獰猛な目つきをしていたにもかかわらず美しかった。目が、離せない。海の中に飲み込まれたようなあの感覚に包まれた俺を、現実へ引き戻したのはコトネの体温だった。サメに怯えているのか、俺の背後から出ようとしないコトネ。その姿を見ているうちに、いつの間にか口が開いていた。

「そんなに隠れなくても、あのサメに襲われることはない。水族館のサメはたっぷり餌をもらっていて、腹が空いていないから。腹が減っていなければ、極力狩りはしないのが哺乳類だ」

言い切ってから、しまったと思った。目の前のコトネはぽかんとした表情でこちらを見ている。理解が出来なかったのか、自慢話だと思われたのかどちらかは分からなかったが、なんだかとても恥ずかしくなって、俺は俯いた。ああ、耳があつい。
しばらくコトネは此方をじっと見つめていたようだったが、ようやく口を開いた。

「すごいね!物知りで、すごいね!あたし、まだよく分からなかったけど、でもサメさんがあたしたちを襲わないってことは分かったよ、ありがとう!」

見上げた先では、もうとっくに泣き止んだコトネが此方を向いて笑っていた。向日葵とか太陽とか、そんな笑顔。ああ、あたたかい。そう認識した途端、目の前の水槽が光ったような気がした。勿論そんなことはない。だけど、今まで暗く冷たい海水に包まれて落ちて行きたいとか、そんな考えが全て吹き飛んだのだ。そう。海はただ暗くて冷たいわけじゃなかった。海は命を育む暖かな羊水であったのだ。

いつの間にか俺まで笑っていた。その事実に吹き出しそうになる。はは、は。なんだこれ。
そうして、気付く。
……ああ、なんだ。そうか。俺は、

「あっ、おかあさんっ」

駆け出していくコトネ。体温が俺から離れる。手を取ることは、しなかった。
母親に優しく抱きとめてもらったコトネは、先程よりも明るい笑顔でわらう。そうして此方を振り向いて、手を振って。

「シルバーくん、ありがとう!」

俺は、誰かにほめて欲しかったんだなあ、とようやく自覚した。
もう、此処へは来ないだろう。一人では。帰ったら父さんの休みの日を聞こう。今まで何も言わなかった分、我が侭を言ってやろう。そうして二人でこの水槽の前に立ったら、俺のサメに関する豆知識を聞いてもらうのだ。
もしその後、あの大きな手で頭を撫でて貰えたら、きっと俺も太陽みたいに笑えるはずだから。

―――
タイトル→ラダ
それにしてもこのシルバー、コトネと同年代にしては大人びすぎである
(100309)

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