緑間と赤司

緑間にとって、人事を尽くすということは、現在において少しでも事柄が好転するであろうことは何であれこなし、万全の状態で本番に挑むということである。
中でも、緑間が絶対の信頼を置いているのが、おは朝占いで示される蟹座の順位と、ラッキーアイテムだ。他人から奇異の目で見られることも多いが、占いを信じ、自分の運気を上げるために奔走することは、間違っていないと緑間は思っている。
何故占いのような何の証拠もないものを信じるのか、と問われたことがある。その理由はいつまでも、誰にも告げるつもりはない。
そう。緑間真太郎には、物心ついた時から運命の赤い糸が見えた。

緑間は賢い子供だった。そのようなものは他の子供には見えていないと理解した瞬間から、そのことを口にするのをやめた。
だからこそ緑間は恋というものを体験したことがなかった。
赤い糸が繋がっていない相手を好きになったところで何になる?いつかは別れることになる相手を一瞬でも好きになるだなんて、緑間には耐え難いことであった。
とはいえ、元々恋愛に対する興味が薄かった緑間は、好意を押さえ込むことで辛く苦しい思いを抱くという機会には直面しなかった。

一度だけ心が痛んだのは、隣の席の女子生徒が話していた恋心を知ってしまったときだった。彼女はクラスの学級委員を勤めており、誰にでも平等に接する生徒で、避けられがちな緑間にも態度を変えたりはしなかった。香りつき消しゴムがラッキーアイテムだった日、どうしても朝のうちに買いに行けなかった緑間に快く貸してくれたのも彼女であった。
放課後、教師に頼まれた仕事を終え、鞄を取るため教室に戻った緑間の耳に届いたのは、室内で楽しそうに恋の話に花を咲かせる女子生徒たちの声だった。
こだまする複数の声の中に、聞きなれたものが混じっていることに緑間は気が付いた。隣席の彼女が恥ずかしそうに告げた名前は、サッカー部の人気者の名前であった。
きゃあきゃあと盛り上がる彼女たちの声を聞きながら、緑間はうっすらと彼の小指を思い出す。確か彼の指先から繋がる赤の先には、あまり目立たないマネージャーがいたように思う。このように性格のよい彼女でも、好きな相手と結ばれることはないのかと思うと、緑間にはなんだか可哀想に思えてきたのだ。
生憎、その時の緑間は賢いとはいえまだ子供だった。善悪の区別もままならない、子供だったのである。

翌日の授業中、緑間は持参してきたはさみで、こっそりと隣席の彼女の小指からのびる糸を切った。次に向かうはサッカー部の彼の元。同じようにして糸を切ると、誰に告げるでもなく、こっそりとその二本を結びつけた。しっかりと、外れないように。
翌朝登校すると、嬉しそうにきゃらきゃらと笑う女子の輪が出来ていることに気が付いた。どうやら昨日のうちにした告白が成功し、晴れて付き合うことになったらしい。
近くで結び過ぎたのが随分はやい決着の要因だったようだが、彼女はとても喜んでいるし、作戦は成功だと緑間は満足げに頷いた。これで香り付き消しゴムの件の借りは返せたからである。
このくらいで喜んでくれるのなら、お礼をしたいと思った相手には恋愛を成就させてやるのが良いかもしれない。妙に浮かれて、そんなことすら考えていた緑間だったが、その思いは放課後に打ち砕かれた。
サッカー部の練習風景を遠目に、帰路に着こうとしていた緑間の瞳に映ったのは、白いタオルを握りしめて泣く少女の姿だった。肩を震わせながら泣く彼女の視線の先には、昨日めでたく結ばれた二人の姿。目元を覆う白い指先からのびる赤い糸は、不自然なところでぷつりと途絶えていた。

背筋を冷たいものが駆け上ったような気がした。緑間はその時ようやく、自分が何をしたかを思い知ったのだ。
余計なことをしてしまった。してはいけないことだった。
後悔だけが脳内を駆け巡るなか、緑間は焦って二人の糸を解こうと試みたが、その場合見ることになるのは隣席の彼女の涙なのだと思うと、結局何も出来はしなかった。
緑間はそのとき、もう二度と運命に干渉しないことを自らに誓ったのである。



帝光中学に入学したその日、きっちりと制服に身を包んだ緑間は、入学式に出席するために別れた母親を探していた。式が終わったら校門前で待ち合わせと約束したにもかかわらず、母親は一向にやってこない。どうせ、式の最中に仲良くなったどこかの母親との話に夢中になってでもいるのだろう。
一緒に帰るなどと約束しなければよかった、と緑間は一人ため息をついた。

そんな親子たちの織り成す喧騒の中、ふと、鮮やかな赤に目を奪われた。それがあちらから歩いて来る少年の髪色であると理解し、彼の姿をきちんと視界に捉えた瞬間、緑間は胸の奥に確かなざわつきを感じた。今まで生きてきて、感じたことのないほどの高鳴り。
これは一体どうしたことか。落ち着かない緑間のこころを代弁するかのように、強く吹きつけた風を受けて、桜の花びらが空に舞い上がった。

式を終えたからといってすでに制服を着崩している生徒が多い中、彼の身だしなみは非常に整っていた。胸元には新入生の証である胸花をつけており、同い年であることが見て取れた。
一年生にしては随分と落ち着いている雰囲気を受けるが、顔をよく見ると、整ってはいるものの童顔であるが故、まだ幼さが残っている。
しかし緑間にとっては、そんなことはどうでもよかった。その時の緑間の頭には、瞳に映る一点のみしか存在してはいなかった。
何度視線を巡らせたところで、事実は変わらない。
自らの小指からのびる赤い糸は、はっきりと彼の小指と繋がっていた。
緑間はそのとき、この男こそ自分の運命の相手なのだと理解した。

バスケ部に入部したことで、名前も知らない彼と親交を深めることになるとは、当時の緑間は予想だにしていなかった。



緑間の運命の相手である赤司は、完全無欠という言葉が誰よりも似合う男であった。
テストで学年一位は当たり前。何においても赤司が負けるところなど見たことがなかった。
それは、よく二人の間で嗜まれた将棋においても同じことだった。いつだって先に音を上げるのは緑間で、満足そうに微笑むのが赤司。
それでも緑間は諦めるということをしなかったし、何度でも挑み続ける緑間のことが赤司も嫌いではなかった。

そもそも何故糸の先に居るのが女性ではないのか。なかでもこの人間離れした赤司なのか。
そういった疑問や不満は当然ながら渦を巻いていた。……はずだった。
いつの間にやらそんなことをかけらも考えなくなっていた自分に面食らったが、不思議なことに嫌悪感はどこからも湧き出してはこなかった。

バスケ部の主将と副主将であるが故、二人きりのミーティングの時間を設けるのも珍しいことではなかった。レギュラー面子の長所や短所について語らう時間をもつということは、お互いに選手としての自分を見つめ直す良い機会であったし、有意義に過ごしている自覚もあった。
そんなある日のこと。ミーティングを終え、流れるように始まった将棋の最中、緑間はひとつの問いかけをした。

「赤司」
「なんだい?」
「お前は運命を信じるか」

赤司は一瞬きょとん、と大きな瞳を瞬かせると、ちいさく笑った。

「それはお前の方だろう」
「……それは否定しないが、今はお前の考えを聞いているのだよ」

緑間の視線から妙な真剣さを感じ取ったからか、赤司はふむ、と人差し指で顎を支えながら思考し始めた。
いち、に、さん、し、ご。きっかり五秒の後、赤司は軽く頷いて口を開いた。

「納得のいかない運命ならば変えてしまえばいいのさ」

赤司の薄いくちびるが言葉を紡ぐ様を見ていると、まるでそれが世界の真実のように思えてきてしまうから不思議だ。それくらい容易いことであるような気さえしてくる。

生まれ落ちてから今まで、他に目を向ける余裕のないほどの赤に彩られていた緑間の世界。
その中でたった一つの鮮烈な赤を目にした緑間にとって、他の赤などいつの間にやら霞んでしまっていた。
二人は運命の赤い糸で結ばれているのだよ。などと、そんな戯言めいたことを言うつもりはない。笑われるのが関の山だ。
いつか正式に結ばれるのなら、そのとき初めて口に出そう。緑間はそう決めていた。



「お前の指はきれいだな」

赤司はよくそう言っては、ミーティングや将棋の合間に緑間の指に触れた。
その際の赤司の手つきは、壊れものを扱うかのようにやさしく、おだやかで。するり、と指のすきまを撫でる赤司の細い指先を、緑間はくすぐったく感じながらもきらいではなかった。
二人の間に流れる凪いだ雰囲気のなかにいると、緑間の心はいつも以上に高鳴った。

ある日いつもと同じように、緑間の指先に触れる赤司のてのひらを視線で追っていると、二人の間を繋ぐ赤い糸の中央が軽くほつれていることに気が付いた。
今までたくさんの糸を目にしてきた緑間だが、そのような状態を目にするのは初めてのことであった。
なんとなく良い気分はしなかったが、それでも糸はやはりきちんと繋がっていたし、ほつれといっても本当に僅かなものだ。
緑間は赤司に見えないように、手のひらで影をつくると、指先でほつれを正した。出来る限り、そんなものは存在していなかったように繕って。


朝のさわやかな空気の中、セットした目覚まし時計がジリジリと鳴り響くよりも前に、緑間は目を覚ました。まだ眠気の残る冴えない頭のまま、枕の脇の眼鏡を手に取り、のろのろと洗面所へ向かう。おは朝を見ることが日課の緑間にとって、早起きは苦手な部類ではなかったが、妙に冴えない朝であった。
蛇口を捻り、流れ出した冷たい水を両の手のひらで掬うと、鈍い脳内に喝を入れるようにばしゃりと顔面にぶちまけた。それを何度か繰り返すと、洗面台脇に詰まれたタオルで水滴を拭う。ふんわりとした布地に包まれ、寝起き直後よりも大分クリアになった視界。
眼鏡をかけ、ブリッジを押し上げようと指先が降れた瞬間、かつてない違和感が緑間を襲った。

いつもと何一つ変わらない、少しばかり眠気の残る朝のはずだった。
あるべきものが欠けていた。赤司がさかんに褒めたて、お気に入りだった緑間の指先。一番細い小指から繋がる、存在してしかるべき運命の赤い糸。それは緑間が抱いてきた感情を抉り取るかのように、中途半端なところでぷつりと途絶えていた。

今まで自分が信じてきたものとはなんだったのだろうか。心に抱いてきたあの震えるような感情は、偽物ではなかったはずだ。人事を尽くしてきた自分が、今更運命に裏切られるなどとなぜ信じられよう。
緑間は柄にもなく、ちいさな子どものようにわあわあと泣きわめいてしまいたい衝動にさえ駆られた。それでも実際に緑間の口からは、なにひとつとして言葉が漏れだすことはなかった。
誰にも告げず、大切の育ててきた秘密の感情。それゆえ誰一人として、緑間と赤司が赤い糸で結ばれていたなどと、証明してくれる人物はいないのだ。
ああ。それならば初めから、こんなもの見えなければよかったのに。

はて。しかしよくよく考えてみれば、もし赤い糸が見えなかったとして、それでも自分は赤司のことを好きになっていたのだろうか?
緑間がその答えを見つけるまでに、さほど時間はかからなかった。
このときばかりは緑間も、赤司には遠く及ばないとはいえ回転のはやい自らの頭を憎たらしいと感じてしまう。
考えることすら放棄したくなってしまったその結論に、緑間はちいさく唇を震わせた。

なんのために毎日早起きをしているのかなど、とうに忘れていた。



「ねえ真太郎。お前は運命を信じるかい?」

夕日が差し込むオレンジ色の教室で、将棋盤を挟んで向かい合わせに座る緑間と赤司。早々に決着のついた将棋の駒が並ぶ盤上を見つめたまま、緑間はしばらく黙りこくっていたが、ようやく何かを決意したかのように赤司を見据えると、ぽつりと、それでいてはっきりと、言葉は紡がれた。

「おれは天命に従うまでだ」

それを聞いた赤司はふふ、とちいさく笑みをこぼす。

「うん。いい答えだ」

後は僕が片しておくから、お前はもう帰るといい。という赤司の言葉に、緑間は少し身じろぎつつも、そうか、といやにあっさりと申し出を受け入れた。赤司に将棋で負かされた次の日はいつも、もう一度挑みたがる緑間にしては珍しいほどに、口数の少ない別れ際であった。
緑間の背中がドアの向こう側へと消えてから、薄く開いた赤司の唇は動く。

「気に病む必要はない。運命だって間違えることくらいあるさ」

赤司は自らの小指から伸びる糸の、まるで誰かによって故意に切られたような切り口を見て、満足げにわらった。

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タイトル→ジューン
(120922)

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